それでは前回途中でぶった切っていた所からの続きですね。
章タイトルについては、Frankさんから「良いね。気に入ったよ」というメッセージをいただいており(果たして本当にこんな(シンプルなだけに難しい)平仮名だけの表現のニュアンスをちゃんと理解されているのかは、やや疑問符が付くとはいえ(笑))、本採用としようと思います。
では早速参りましょう。
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That Type of Girl(そっち系のひと)~第二版~
志村貴子『青い花』に関する考察
著/フランク・へッカー 訳/紺助
(翻訳第49回:第二版208ページから211ページまで)
なんとも…ややこしい(前回の続きから)
志村貴子自身も、トランスジェンダーの子供たちを主人公にした漫画『放浪息子』に関して、同様の批判にさらされたようだ。志村は、トランスジェンダーのことをよく知らずにこの作品に着手したと見られただけではなかった(「彼女は作品の半分以上を、基本的に手探りでやっていた」)。そもそもトランスジェンダーの登場人物を書くこと自体に疑問を呈する人もいたのである:「日本のトランスの人たちの間には、こんな感情があった:『おぉ、凄い。やっと私たちが表現されるようになったんだ。でも…私たちの代表になったのは、私たちの仲間ではない人みたい。』」*1
ここで、百合というジャンルには元々性別の異なる作家陣が存在し、ファン層も多様であるためか、同様の批判が、百合というジャンルで活躍する作家に対して向けられることはないようである、という点は特筆に値しよう。百合ジャンルでは、百合作品を書いてはいけない人という「排他的なレッテル貼り」よりも、(エリカ・フリードマンが行ったように)LGBTQの人々が百合作品を書いているというポジティブな例を広めることに重点が置かれているように思われる。
志村の『青い花』における作者性に関する論争はさておき、この作品自体の「表現」に関する問題についてはどうだろうか?『青い花』が多くの百合作品と異なるのは、主人公(ふみ)が、女性にしか惹かれず、かつ自分が常にそうであると自覚しているという意味で、明確かつ議論の余地のないレズビアンである、ということにある:「わたし 惚れっぽいんですかね… そういうふうにしか 女の人のこと好きにならなかったから」(『青い花』(6) p. 64/SBF, 3:244)。これは日向子や織江にも言えるし、ましてや前田は言うに及ばず、自らをレズビアンであると明言している((6) p. 177/3:357)。
このことは、本作の登場人物をして、お互いに惹かれ合うことが偶発的で状況的なものであるように思われる他の百合作品の登場人物とは、異なるタイプのキャラクターたらしめている点である:彼女らは、作為的な仕掛けによって関係を始め、互いに惹かれ合うことについて疑問を持ち(「でも、私たちは女の子よ!」)、互いに惹かれ合うのは一般的な性的指向ではなく、ある人物に限定されているもののように思われるのだ。
折よく、『青い花』にも、京子、恭己、そしてあきらも含めて、同じように動機や方向付けが問われる対象となっている登場人物がいる。そして、典型的な百合作品の登場人物とは異なり、彼女らは他の女性との交際に心の底から専念して作品を終えるわけではない。京子は康と結婚し、恭己の指向は意図的に曖昧にされている(と個人的には思う)。また、あきらは告白し、ふみと新たな関係を結ぶが、あきら自身の恋愛や(特に)セックスに関する問題の多くは、未解決のままであることが暗示されている。
多くの漫画やアニメは、少女同士が惹かれ合うことをほのめかし、視聴者にカップルになることを期待させながら、何らかの方法でその期待を裏切る「百合の釣り餌利用」だとして非難されてきた。『青い花』は紛れもなく百合作品ではあるけれど、京子や恭己といった登場人物の運命から、志村貴子も同様のことをしていると結論づける向きも、ひょっとしたらあるかもしれない:仮に志村は読者をミスリードしていないとしても、少なくともこの作品に登場するレズビアン的表現の量を制限し、それによってもっと見たいと思う読者の期待を裏切っている、というものだ。
これはフェアな批判といえるであろうか?志村の別の作品へのレビューで、ブロガーのハイメは反論を述べている:「他の人が欠点とみなすものだけど、私ははっきり言って、彼女の作品の重要な資質だと思う。…物語は厄介で、登場人物は厄介で、志村作品は、LGBTQ+コミュニティが表現として何を望んでいるかについての、きちんとした物語には当てはまっていない、ということ。」*2
この視点から言うと、『青い花』というのはあきらについてと全く同じように、あるいはそれ以上に、ふみについての物語なのである。ハイメはふみを「コメディ映画の『ストレートマン(※訳注:「引き立て役」という意味とともに、「異性愛者」という意味も含んでいるため、この文脈で使うのにうってつけの表現だと思われる)』に例えられるし、登場人物たちは、愉快な人たちがジョークを飛ばすために必要な人たち」だと述べている。ふみは「真っ直ぐなLGBTQ+の表現であり、恋愛対象や脇役は、現実世界の人々がいかに厄介な存在であるかを示すために対抗してくれている」のである*3。
本書の導入部で私は、「(京子、あきら、ふみを)合わせて、百合の三つの『時代』を代表していると考えることができる」と書いていた:京子は過去、あきらは現在、ふみは未来である。しかし、この三人は、現実の女性が他の女性に惹かれたときに取り得る、三つの異なる道を表しているとも考えられるかもしれない。
京子のように、その欲望を捨て去り、異性との交際を経て、最終的には男性と結婚する人もいるかもしれない。あるいは、ふみのように、女性を愛する女性として生き、レズビアンであることを確固たるものとし、そのアイデンティティを友人や家族、そして(人によっては)一般大衆に打ち明けていこうとする人もいるだろう。更には、あきらのように、女性との関係はあっても、レズビアンであることを自認することができない者もいるかもしれない。それは恐らく、他人の目を恐れるからであり(ちょうどあきらが時折そうだったように)、あるいは(これまたあきらが時折そうであったように)自分が何者で、何を望んでいるのかを問いかける状態であり続けるからではないかと思う
もし『青い花』が最終話を越えて続いていたら、あきらとふみの関係が大人になってからどのように変化していったのか、興味深い所だったであろう:関係が維持されたのか、崩壊したのか、あるいは親しく仲睦まじい時期と不満やすれ違いの時期の間を行ったり来たり循環していたのだろうか。しかし、志村貴子はそのような漫画を描かなかったし、それは正しいように思う:二人が大人になって旅を終えるとはいえ、『青い花』の核心は、女子学生の恋愛という「いばらの森」を案内する、ティーンエイジャーの物語なのである。次節で述べるように、百合というジャンルは『青い花』の連載後に進化したため、志村が純粋な大人の百合漫画に挑戦するのは、数年待たなければならなかったのである。
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中々、難しい(センシティブなネタであるとともに、やや抽象的で理解が難しいという点も含め)話題ではありましたが、僕はLGBT当事者でなければ積極的な推進派でもないため(全く一切反対派でもありませんが)、どうしても他人事として捉えてしまいがちではあるんですけど、言うまでもなく大変興味深い考察が繰り広げられていた形ですね。
志村さんが放浪息子で当事者から非難されたことがあった…という点や、青い花では百合漫画好きの人から「それは違ぇだろ!」という怒りの声が届いた…という点は、僕は全く知らなかったんですけれども(まぁ、後者の批判は、気に食わない展開だと文句を言いたくなるのが読者の性ですから、それを言ってはいけないとは思いませんし、志村さんも、仮に目にしてしまっても重く受け止めるというか深く傷つく必要は一切ないと思いますが…)、やっぱり非当事者で色々浅くしか考えない立場の意見かもしれませんけど、少なくとも放浪息子は本当にこれ以上ないほどリアルな、過剰に貶すことも逆に美化することも決してしない、心の底から素晴らしいLGBT関連作品であったと僕なんかは思いますよ。
…というか、例のユリイカのインタビュー記事で、もちろん志村さんは当事者というわけではないんですけど、自分自身、特に幼い頃、その辺がボンヤリしていることもあった…みたいなことをおっしゃられていた気がするので(あえて原典にあたらず適当に記憶を頼りに書いただけなので、全然そんなことおっしゃられてなかったかもしれませんし(笑)、詳しくはぜひユリイカ特集号をご覧下さい)、デビュー作からずっと触れられていたネタでもありますし、「当事者じゃないのに書くのはどうなんだ」という批判は、必ずしも的を射てはいないんじゃないかなぁ、って気もしました。
むしろ、全く当事者の気持ちが理解できない人があれだけリアルな物語を書ける方が凄くない?仮に完全に空想の産物だったとしても、そこはガッカリする所なのだろうか…?
……などとも思えてしまいましたけど、まぁ僕は志村さんの全てを肯定する男なので、単に否定的な意見はノーサンキュー、ってだけなのかもしれません(笑)。
改めて、あんまりこのホットなトピックにそこまで熱心な関心のない立場の人が偉そうに論じるべきではない話題なのかもしれないですね。
一方、青い花の「正統的な百合作品の展開としてうんぬん…」も、僕は百合過激派でもありませんから、一切全くこれっぱかしも、展開やキャラの運命とかに不満はありませんでしたね(笑)。
あぁ、というか、こないだの記事で「京子が心変わりして男性とくっついたことは誰も語ってないけど…」と書きましたが、バイセクシャルうんぬんまではなくとも、Frankさんはその辺ちゃんと触れてらっしゃいましたね。
いずれにせよ改めて、僕にとって志村さんの作品達というのは、本当に嫌な所・残念な点がただの一つもない、奇跡のようなバランスで紡がれた傑作なのです、という話でした。
結局浅い、小学生並の感想程度で恐縮です(笑)。
では次回は、追加章のラスト、付録の「タイトルの由来」コーナーを訳して終わりましょう。
これは既に自分の記事で触れていたわけですが、Frankさんも考察本内に取り上げてくれた形なので、本に書かれた英文を日本語訳に起こす形ですね。
なお、元ネタとして、自分でも気付いていなかった新発見が2, 3ありました。
詳しくは次回をお楽しみに~。
*1:Vrai Kaiser, Jacob Chapman, Cayla Coats, and Rachel Thorn, “Chatty AF 21: WanderingSon Retrospective (with Transcript),” Anime Feminist, September 3, 2017, https://www.animefeminist.com/podcast-chatty-af-21-wandering-son-retrospective/
*2:Jaime, review of Even Though We’re Adults, vol. 4, by Takako Shimura, Yuri Stargirl (blog),April 23, 2022, https://www.yuristargirl.com/2022/04/even-though-were-adults-volume-4-manga.html
*3:Jaime, review of Even Though We’re Adults, vol. 4.