青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その29:自分ひとりの劇

今回も、セクションタイトルの補足から触れていきましょう。

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"A play of one's own":ヴァージニア・ウルフのエッセイ「A room of one's own」のタイトルが元ネタである。

このエッセイが日本語に翻訳されているのかどうかは分からない。(日本語版ウィキペディアには記事がないようである。)

もし、このエッセイの日本語訳が見つかったら、邦題の「部屋」を「劇」に置き換えてもらえればよいだろう。

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普通にありましたね。

邦題は『自分ひとりの部屋』のようで、もちろん僕は未読ですけど…

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しかし、訳者によっては、『自分だけの部屋』というタイトルも使われているようですが…

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検索結果的には「ひとり」の方が断然多く使われていたので、そちらを採用させていただきましょう。

 

それにしても、ヴァージニア・ウルフって、作家さんの名前だったんですね!

僕はブルー・ハーツの『手紙』という曲でいきなり登場してくるものでしか知らず…

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「♪ヴァージニアウル~フの メノウのボタン」と続くので、何かボタンのある服でも作ってるヨーロッパのブランドかなんかと思ってましたよ。

また1つ賢くなってしまった……

…って、こんなんで賢くなるも何もないわけですが(笑)、ちゃんと賢くなるために、実際にウルフさんの小説でもいつか目にしておきたい限りです。

 

記事を飾る画像は、英語版最終巻4巻から順に……と、最後だけは、表の表紙が日本語版8巻・裏表紙が7巻と、これまでとは逆の順番になってるんですね!

まぁ、8巻が最後を飾る表紙なわけですし、そりゃ普通に考えてそうするわな、という話でしょうか。


そんなわけで、まずは日本語版7巻の方=裏表紙から引っ張らせていただきましょう。

オレの京子と良子が背中合わせで、色が混ざり合って……とても良い画です。

英語版4巻裏表紙・https://www.amazon.com/dp/1421593017/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第29回:163ページから167ページまで)

自分ひとりの劇

青い花』の最も効果的な演出の一つは、志村貴子が毎年恒例の藤が谷演劇祭を利用して筋を進め、漫画のテーマについて間接的に注解を加えていく様にある。英語版第四巻では、藤が谷演劇部恒例の演劇祭作品として、本年は、藤が谷女学院を舞台にした『三銃士』の学生版が上演される。また、松岡女子高等学校のこれまで休部状態だった演劇部が、大まかにふみの若いレズビアンとしての体験を基にした初演で参加している(『青い花』(7) pp. 165-6、(8) pp. 104-5/SBF, 4:167-68, 4:284-85)。

 テーマ的な側面でいうと、年を経るごとに、より日本的な設定、より現代的な時間枠、そしてより女性の主体性と作家性とを中心とした物語へと、全体的に進展していることが見て取れる。初年度は、18世紀末のイギリスを舞台にした19世紀の小説『嵐が丘』の翻案であった。あきらの父が言ったように、ミュージカルではないが、宝塚歌劇のような雰囲気があり、恭己はヒースクリフ役で男役 (otokoyaku) を務めていた(『青い花』(2) pp. 40-50/SBF, 1:236-46)。ふみと恭己の関係が、恭己の感情の未熟さとふみの嫉妬とによって破綻するというこの上演に付随する筋書きは、「女の子の王子様」役の限界を浮き彫りにするものであった。

 この年の他の作品も、欧米作品の翻案であった:19世紀のアメリカの小説『若草物語』と20世紀のフランスのファンタジー作品『星の王子さま』である(『青い花』(2) p. 39/SBF, 1:235)。

 あきらにとっての藤が谷の二年目には、日本の文学や歴史に根ざす作品が次々と上演された:10世紀頃のかぐや姫の物語川端康成の短編小説『伊豆の踊子』(1926年発表)の演劇版、そして19世紀末を舞台にした、1956年の三島由紀夫の戯曲『鹿鳴館』である(『青い花』(5) pp. 68、73、78-85、90-7、100-1、103-4/SBF, 3:70, 3:75, 3:80-87, 3:92-99, 3:102-3, 3:105-6)。

 この三作品はいずれも、男性に注目されたり支配されたりする女性が主人公である:かぐや姫天皇を含む求婚者に悩まされ、月に帰ることでのみその悩みから逃れられた。伊豆の踊子は、男子大学生の妄想の対象となる。最後に、そして最も悲劇的なものとして、元芸者の朝子が、権力者であり嫉妬深い夫の政略によって、元恋人とその息子とを失うことが挙げられよう。

 特に『鹿鳴館』では、京子が朝子役で初主演するが、朝子の運命―真実の愛を失い、愛のない結婚に追い込まれる―は、京子と康の関係を考慮すると、将来的には京子自身のものになる可能性が暗示されている(『青い花』(5) pp. 86-9/SBF, 3:88-91)。また、『鹿鳴館』では、あきらが無邪気な少女顕子として初めて舞台に立ち((5) pp. 82-3、90-3/3:84-85, 3:92-95)、ふみはオーディションを受けるも失敗している((4) pp. 99-106、128-30、133-6/2:279-86, 2:308-10, 2:313-16)。それでもふみの努力は、直接的には春花との友情を得て、間接的には春花の姉・織江のパートナーである日向子へ相談を持ち掛けられるにまで至ったのだ((4) pp. 148-51、153-4、(5) pp.46-8、(6) pp. 38、44-7、63-4/2:328-31, 2:333-34, 3:48-50, 3:218, 3:224-27, 3:243-44)。

 英語版第四巻では、あきらが藤が谷演劇部の部長の座を継ぎ、京子が副部長となる。部員たちは高等部、中等部、初等部と、それぞれでどんな演劇をやるか悩んでいる。当初は、初年時の再現であるかのように、候補作はすべて欧米の作品であった(『青い花』(7) pp. 45-6/SBF, 4:47-48)。

 結局『三銃士』をやることに決定したが、京子は「オリジナルの舞台ってのも憧れるわよね」と希望を口にする(『青い花』(7) pp. 74-5、86-7/SBF, 4:76-78, 4:88-89)。しかし、顧問とみなされている各務先生は、いつものように全く役に立たず、企画を検討する会議には出てこない。だが、代役として出席した日向子が、キーとなる提案をする:宝塚の定石を破って、男性役を女性が演じるのではなくキャラクターを女性にしてしまうこと、および舞台を17世紀のフランスから藤が谷そのものに変更してしまうことなどがそれだ((7) pp. 163-5/4:165-67)。

 その結果、藤が谷を運営するシスターたちの不興を買い、あきらの叔母である恵子など一部の観客を怒らせてしまう(『青い花』(7) pp. 165、7/SBF, 4:167, 4:169)(※訳注:英語版では「シスターの中には、眉をひそめて認めなかった者もいるが…」となっているが、日本語版では「目を丸くされることはあっても 目くじらを立てて怒りだすシスターは…なく」と、驚かれはしても具体的な否定まではなされなかったという、やや異なる翻訳になっているようだ。また、伯母の恵子も、英語版では「怒りを表していた」とあるが、日本語版では「なにあのお芝居って呆れられちゃって」という程度である)。なぜこうなってしまったのだろうか?結局、『三銃士』は老若男女に愛される普遍的な人気作品なのである。

 観客の違和感の原因は、表向きは別の時代と場所を舞台にした歴史小説が、日向子の助言に従って脚色・修正され、藤が谷女学院そのものに対する間接的な物言いにあたると見なされたからではないか、と私は推測している。この劇は、暗に含みとして、藤が谷の伝統とは相反する、女性の主体性やジェンダーの束縛からの解放という視点を推進していたものであり、それというのも、原作小説に登場するアクション―予期せぬ衝動的な戦闘シーンから、女性を誘惑する行為まで―が、空想の自分たちを演じる藤が谷の生徒たち自身によって再現されていたからなのである*1

 藤が谷演劇部の少女たちは、レズビアンの教師から着想を受け*2、「男性的な」冒険小説の脚本を自分たちの物語にしたのである。この巻で取り上げられていたもう一つの藤が谷演目『アンネの日記』も、少女が自分の物語を―しかも凄惨な状況の中で―書くという設定になっているのは、恐らく偶然ではないだろう。

 この「少女が自分の物語を書く」というテーマは、ふみの友人ポンがふみの人生を緩やかに題材にして書いた演劇『乙女の祈り』(英題:Heavenly Creatures)が松岡演劇部によって上演されたときにも続いている*3。この公演のルーツは、ポン、モギー、やっさんの三人が中学1年生の時にはやる気持ちで演劇部に入部し、3年生が温かく迎えてくれた所にまで遡る。

 しかし、3年生が卒業し、2年生が学年ヒエラルキーでトップに立つと、この仲良し三人組をはじめとする演劇部員に対して上から目線で接するようになる。その結果、不和が生じ、演劇部は解散に追い込まれた(『青い花』(8) pp. 11-8/SBF, 4:191-98)。

 特にやっさんは、松岡女子では文化祭が行われないこと、および松岡の演劇部が自分とモギーとポンの三人しかいないという事実を運命として受け止めてしまった経験に、自ら心底ガッカリしてしまっていた(『青い花』(8) p. 19 (1) p. 23/SBF, 4:199, 1:23)。あきらによる松岡の教職員への働きかけが失敗した後、ふみは演劇部に入部するが、松岡演劇部は比較的瀕死状態のままであった((6) pp. 91-3/3:271-73)。

 しかし、彼女らが松岡女子の3年生になったとき、二つの独立した出来事が演劇部の運命を変えた。まず第一に、演劇漫画『ガラスの仮面』に影響を受けた熱心な1年生が演劇部に入部し、友人も一緒に入るよう説得してくれた(『青い花』(7) pp. 13-5/SBF, 4:15-18)。さらにこの後輩の二人は、松岡の文化祭が開催されるよう、学校の教職員や生徒に対し一生懸命ロビー活動まで行ってくれていた((8) pp. 7-10/4:187-90)。

 第二に、演劇部の少女たちは、既存の劇を上演するのではなく、自分たち自身の経験から着想を得て、自分たち自身の劇を創作した。前年のクリスマス、ボーイフレンドに関する会話とポンからの質問とがきっかけで、ふみは三人の友人にカミングアウトしていた(『青い花』(6) pp. 124-31/SBF, 3:304-11)。その夜、ポンはふみのような少女についての劇を書き始め、(ふみの許可を得た後)完成した脚本を、演劇部が参加する予定の演劇コンクールの応募作品として発表したのである(『青い花』(7) pp. 100-3/4:102-5)。

 ポンはこの劇を、(恐らく)異性愛者である少女として、ふみを観察し、ふみとの会話を通して得られた知見から想像力を働かせて書いたことになるわけだが、ふみ自身は、この劇が比較的現実的であると感じていた(「つい自分と重ねてしまって……」)(『青い花』(7) p. 104/SBF、4:106)。実際、劇中の台詞(「引っ込み思案で泣き虫だった あの小さな女の子は死にました……今 わたしの中に宿るのは 愛する彼女とよりそいたいという強い意思です」)が、後にふみ自身の心の独白として繰り返されている(『青い花』(7) pp. 109-10、(8) pp. 5、28、99-100/4:111-12, 4:185, 4:208, 4:279-80)。

 この作品は、演劇コンクールの審査員と他のコンテスト参加者に対してのみ上演されたが、賞を獲得する成功を収める。この比較的小さなグループは、これまで友人と日向子だけに限られていたふみ自身のカミングアウトと呼応している。にもかかわらず、この劇は、ふみを脚本家と勘違いした少女が、その演劇と特に脚本に感動し、今の自分の気持ちにどれだけ響いたかを伝えるという形で、一人の観客を獲得するのであった(『青い花』(8) pp. 104-8/SBF, 4:284-88) 。

 ここで注目すべきは、この少女の外見が、従来の百合のタイプのどれにも当てはまらないということである(『青い花』自体にも含まれるタイプの一つである):長い黒髪の「大和撫子」(作中ではふみが代表)、短めで明るい髪の「元気娘」(あきら)、ハンサムな「女の子の王子」(恭己)といった、どのタイプでもない。

 ちょっと地味で、ちょっとぽっちゃりめな、至って普通の少女なのである。そのため彼女は、ステレオタイプな百合ファンタジーに現実が入り込んでいる様を表現しているといえる―典型的な日本の若いレズビアンといえるかもしれない人物が、自分を舞台に連れ出す際にそびえ立つ第四の壁を、ほとんど打ち破るかのように。恐らく彼女は『青い花』のような百合漫画を読み、さらには志村貴子や他の百合クリエイターのようになって、いつの日かそれを書いたり描いたりしたいと願うようになるのかもしれない。

 ふみがこの少女に対して、自分とこの劇との関係について何を話したかは我々読者には分からないが、この少女の平凡さにもかかわらず、ふみが彼女を同志として見ており、さらには、もし違う形でうまくいっていたら、恋愛相手になったかもしれない人だと見ていることは明らかである:「あなたとわたしが恋におちたらよかったですね」(『青い花』(8) p. 108/SBF, 4:288)。

 しかし、物語の現実に戻ると、ふみはあきらとの関係崩壊にそわそわしており、そのあきらは、自分がふみの愛に応え、彼女の欲望を満たすことができるのかという疑念に苦しんでいる。その疑いは、あきらがポンの脚本を読んで、ふみの中にある新しい感情を知るにつれますます強くなったようで、ついにふみにぶつけざるを得なくなった。ふみは、別れる日が来たとしても絶望しないで生きていけそうだと言い、あきらも実際に別れなければならないと結論づけることとなった(『青い花』(8) pp. 21-7、89/SBF, 4:201-7, 4:269)。

 ふみとあきらの関係がそんな状態にありながら、『青い花』は最終章を迎えていく。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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演劇と絡めて、少しずつ幕へと近付いてきました。

非常に濃い考察の中身に補足できるような点はほとんどありませんが、一つ……乙女の祈り

これは、放浪息子でもエピソードのサブタイトルに使われていたはず(確認していませんが、安那ちゃんの立ち姿の扉絵でめっちゃ好きなので、100%確実です)なのも大変印象に強いぐらいの、恐らく志村さんご自身もお好きなタイトル・フレーズといえましょう。


記事本文中の注釈でも触れられていましたが、こちらの英語版でのタイトルは、まさかの、Heavenly Creatures(天国の動物たち)!

んなアホな、と思いきや、どうやら同名の映画の邦題がまさに『乙女の祈り』みたいですね…。

ja.wikipedia.org
いやぁ~、例によって映画モグリの僕としては、『乙女の祈り』はどう考えても「バダジェフスカさんのピアノ曲だろ…?」としか思えないわけですけど、まぁバダジェフスカさんはロシアだかその辺の人で(調べたらポーランドでした)、原題が何かめっちゃ分かりづらい文字列だったので(『Modlitwa dziewicy』(あるいはフランス語で『La prière d'une vierge』)とのこと)、本当はピアノ曲なんだけど、原題のタイトルがやや使いづらいから翻訳版では映画の方にした、という感じであって欲しい…というか僕の中では勝手にそういうことにさせていただこうと思います(笑)。

(まぁでも、観てないだけで、映画も本当に素晴らしいのかもしれませんね。)


バダジェさん、クラシック界の一発屋ともよく言われますが(パッヘルベルのカノンとタメ張る感じ?)、乙女の祈りは一発でも百発分ぐらいの価値はある名曲といえましょう。

何でこの曲はこんなにも心に響くんでしょうね…?

検索して再生回数トップだったものを貼らせていただきますが…

www.youtube.com
…沁みるぜ…!!

これはズバリ、かしまし三人娘のテーマ曲といえそうですね(正直あんまりポンちゃん・モギー・やっさんの三人にはそれほど合ってないかもしれませんが(笑))。

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*1:それ自体反教権的な作品ではないが、『三銃士』は教会を穏やかに揶揄もしており(例えば「アラミスの論文」の章では、アラミスが銃士になるか司祭になるかの間で揺れ動く様子を描いている)、そのユーモアが劇中に出て来ていたとしたら、藤が谷のシスターたちの不興を買う理由にもなろう。Alexandre Dumas, The Three Musketeers, trans. Richard Pevear (NewYork: Penguin Books, 2007), chapter 26, Kindle.

*2:彼女らはまた、別のレズビアンによっても危うく悲劇になる所から救われていた。春花が家に忘れてきた衣装を、織江が日向子の依頼で、仕事の合間に届けてくれたのである(『青い花』(7) pp. 150-4、/SBF, 4:152–56, 4:161)。

*3:「Heavenly Creatures」は、この劇の発端を描いている第46話のサブタイトルでもある(『青い花』(8) p. 6/SBF, 4:186)。しかし、日本語版では、演劇題目も話のサブタイトルも「Otome no inori」となっており、これは、直訳で乙女の祈り (A Maiden’s Prayer) と訳される。Shimura, Aoi hana, 8:6, 8:25, 8:104.