ここ何回かの記事で、分子の立体構造にまつわる話……主に鏡像異性体(鏡に映したときに出てくる、決して重ね合わせができない関係の構造)について色々触れていました。
前々回の記事では糖の代表・グルコースにもD体とL体があり、L-グルコースは天然にはほとんど全く存在せず、かつ、食べても代謝経路に乗ることがない=エネルギーとして一切活用されないことなどに触れていた感じですが……
まぁ糖でもちょっと構造が違うだけで(物質としては全く同じなのに)全く栄養素として使い物にならなくなるという違いがあるというのも驚きなので、最早何があっても不思議ではない話かと思いますけれども、立体構造の違いが極めて大きな性質の差を生み出す例としてもう一つ代表的なものに、記事タイトルにもしましたサリドマイドなんかが挙げられますね。
画像、真ん中の、左側(無水フタル酸の誘導体)と右側(グルタルイミド)とをつないでいる波線のような結合ですが、これはまさに、例の立体構造表記で使われる太字三角形(紙面の手前にあることを意味する)と点線のクサビ形(紙面の奥)の両方を意味する記述で、まぁ鏡像異性体があるという話なんだから当然ですが、サリドマイドには立体的な配置が異なる、D体とL体の2パターンがある形になっています。
(なお、立体異性体の表記にはまた別のタイプもあり、「R体とS体」で区別されることもありますけど(後ほど示すリンク先では、R/Sが使われていました)、例によってめちゃんこややこしい立体的な判別法が絡んでくるのであまり深入りはしないものの…
例えば、この辺の解説記事(↓)がめちゃくちゃ分かりやすく説明してくださっているので、気になる方はご覧ください(古い記事のようで、リンクカードの取得は出来ませんでしたが…)
・立体配置の記述法 R-配置とS-配置:http://www.chiral.jp/main/R%26S.html
…↑の記事にもある通り、何気に、L/D表記は場合によっては厳密性に欠くこともあるため、R/S表記の方が仕組みとして優れておりより推奨される形になっているのですが、極めて身近な物質であるアミノ酸と糖なんかでは伝統的にL/D表記が使われているので、個人的には断然L/Dの方が馴染みがある感じですねぇ。
とはいえ、有機化学を専門とする方には、恐らくR/S表記の方が好まれるのでしょう。
いずれにせよ、語呂的な覚え方としてはどちらも非常に便利で、L/DとR/S、どちらも「右 Right」と「左 Left」の文字が出てくる方がそっちで、相方が逆になっているためそこをきっかけに思い出せばよく、右手型=R体・D体、左手型=S体・L体となっています。)
話を戻すと、先ほど画像用にリンクを貼ったWikipediaにも記述があった通り、どなたも社会の教科書とか、あるいはどこかで何となく聞いたことがあると思われる、20世紀半ばに世界規模で起こったサリドマイド薬害事件……ウィ記事には奇形となった赤ちゃんの足の画像なんかも掲載されていましたが、胎児に催奇形性をもたらすことが知られ、大きな事件となったこのサリドマイドという分子なわけですけど…
(なお、これもウィ記事にありましたが、「サリドマイド」という名前は、フタル酸イミドとグルタルイミドのくっついたもの、Phthalimido glutarimideから来ているとのことですね。何でそんな中途半端な取り方なのか謎ですけど(笑)、まぁ名前なんてそんなもんでしょうか)
…ズバリ、催奇形性があるのは、左手型のみであることが後の調査で判明した形だったのでした。
したがって、当時、右手型のみを合成する技術があれば、この痛ましい事件は起こらなかったのに……といえるわけですが、実は、後の研究で、「右手型のサリドマイドは、体内で速やかに左手型に変換される」ということも分かってきたのです。
そう聞くと、「え?毒性があるのが左手型で、右手型のみのものを飲んでも勝手に左手型になるなら、ダメじゃん」と思えるのですが、さらに驚くべきことに、実はサリドマイドは(元々睡眠薬や胃腸薬の一種として処方されていたものだったものの)その後、ハンセン病や多発性骨髄腫といった難病の治療薬として強い効果を持つということも知られるようになり、妊婦以外には何気に現役で活用されている素晴らしい薬でもあり……
…その薬は、実は右手型・左手型の等量混合物として作られているのです。
安全な右手型のみを飲んでも結局毒性のある左手型に体内で勝手に変換されるのに、なぜ毒も混ざった形の混合物が薬として安全に処方することが可能なのか…?
この「サリドマイドのパラドックス」は、何気に長年謎のまんまだったみたいですけど、つい最近、2018年に、名工大の柴田哲男さんのグループが、(あくまで実験的な仮説段階とはいえ)ズバッと解決されたということで、Natureに掲載されたという研究報告レポートが大学のプレスリリース記事でも紹介されていました。
…非っ常~に分かりやすく、また明快な研究結果で、これは面白いですねぇ~。
ポイントの画像だけお借りしますと…
右手型のみを摂取しても、体内で変換が起こり混合状態になる(=ラセミ化)というのは上述の通りですが、実は少しずつ変換された左手型は、大量に存在する右手型と1対1の関係で、速やかに手をつないで安定な二量体を作り、この「右左セット型」は、血液に溶けず全身に運ばれない(よって細胞に吸収されない)ことが実験的に示されたということで、右左等量の、1対1でくっついたラセミ化サリドマイドであれば、実は人間の体内で毒性を示すことがないと、そういう仕組みになっていたという話だったようです。
これはとても面白いですね!
まぁ、「なぜ薬として、右手型ではなくラセミ型が使われるのか?」という理由は明記されていないものの、これはどう考えても、「ラセミ体の方が製造コストが安いから」ということになるのでしょう。
一方、昔薬害を引き起こしたサリドマイドに関しては、これは恐らく当時の技術レベルでは右手型のみ(あるいは等量のラセミ化)のサリドマイドは合成できず、恐らく不幸なことに物性としてサリドマイドには左手型に偏りがあったため、二量体を作りそびれた左手型の単量体が血中に十分量溶け込んでしまい、悪さをしてしまった……と、そういう流れだったのではないかと思います。
(詳しく原著論文その他を見ている時間がなかったので推測ですが、普通に考えてそう思われますね。)
もちろん、今でも妊婦への投与は禁忌のようですが、それは影響の受けやすい胎児を守るための念のための措置で、分子の立体構造にまで気を付けることで、基本的には生体毒性はない、安全な治療薬に生まれ変わったのがサリドマイドだったのです…という話でした。
また時間があんまりなかったのでうわべをなぞるだけの記事になってしまいましたが、立体構造ネタはその辺で大体触れ終えたため、次回はまた呼吸反応に戻っていこうかなと思います。