素粒子の同一性についておさらいしておこう

しばらく脱線が続いていた放射線ネタも、一通り触れたいネタに触れられた感もあるので…

(まぁもうちょいいくつかあったんですが(ほとんど触れなかった中性子線についてなど)、それも細かすぎるので、また機会があればにしようと思います)

…途中状態で保留になったままの、アンさんよりいただいていたご質問の続きの方に、早速戻って参りましょう。


補足しておきたかったナイスポイントのご指摘、感謝の限りにございます!

 

それにしても、陽子の数が違うというだけで性質が変わる(違う物質になる)というのは新しい発見でしたが、これはめちゃくちゃ興味深いですね。


全ての物質は、遡れば同じ(陽子、中性子、電子)ということですもんね。


と思いましたが、、『区別が出来ない』というのは、厳密には『同じ』ということではなく、『同じとするしかない』という感じなんですかね?


まぁ、この辺の細かそうなお話は、リンクを読んでみるまではちょっと無理なので(時間的な問題よりも、理解できると思えないという点で笑)、そっとしておこうと思います。

 

⇒電子の数が変わったものは、ズバリ「イオン」なので性質が変わるっちゃ変わりますけど(水素原子と水素イオンは反応性から何から全然違いますしね)、あくまで同じ物質とみなされる一方、陽子は本当に、1つ数が変わるだけで全く完全に、性質のみならず色も姿形も完全に別の物質になりますから(というかまさに、陽子の数こそがその物体が何者かということを決めている、物質の本質といえる)、これは本当にあまりに重要な粒子だといえましょう。

(ちなみに、中性子の数が変わったものは、これは電子よりデカイ粒子のくせして、「同位体」というちょっと安定性が違うだけの兄弟原子になりますから、やはり「大きくて、かつ電気も保有している」という陽子が、原子構成要素の最重要物質といえる気がします。

…もちろん、化学反応最重要物質は電子ですし、原子に放射能が加わる最も多い要因は中性子の数の違いですから、それぞれ重要な粒子であることには変わりありませんが。)


それはともかく、これら原子を構成する基本単位である微小な粒子が、全く区別がつかない同じものである(例えば、水素の中の陽子とウランの中の陽子は全く一緒(数が違うだけ)だし、鉄の中の電子はネオンの中の電子と全く同じ(反応性は天と地ほども違いますが))ということを、↓の各用語に触れた記事で書いていました。

con-cats.hatenablog.com

その「区別ができない」という点について、朝永振一郎さんの名著「量子力学と私」をまとめてくださっている記事リンク(=物理の窓:「素粒子は粒子であるか」シリーズ)を貼り、「気になる方はぜひご覧ください」としていたのですが、「ちょっと時間なくてリンクまでは飛べん。分かりやすく解説よろ」というご用命を受け……たわけではありませんが(笑)、せっかくなので、(言うまでもなく元々が素晴らしい解説なので、ほぼ完全に焼き直しに近い、劣化コピーになるだけの可能性も大きいのですが)今回はそちらの方に触れておこうかと思います。


繰り返しですが、話の流れは完全に朝永さんの解説のコピーになるわけですけど、順番にパクりながら自分の言葉に直してまとめさせていただきましょう。


まず注意点として、朝永さんによる解説記事で語られている素粒子は主に光子であり、これはついこないだの電磁波記事でもチラッと見ていた通り、粒子でありながら質量をもたないみたいなヤベェやつなんですけど、それだと存在自体があやふやでよぉ分からなくなる気もしちゃいますし、ここではめちゃくちゃ小さいけどちゃんと重さがあって、実体のある「粒」と言い切れる電子で話を進めようと思います。

電子も素粒子ですし、解説記事中で「この話は陽子や電子でも同様である」と明記されているので、光子じゃなくても問題ない感じですね。


また、素粒子ではない、一般的な単なる粒子=普通の目に見える物質の例として米粒が挙げられていますけど、まぁそこまでパクッたら全く一緒になりっちゃいますし、ここは赤玉・白玉のボールに置き換えさせてもらいましょうか(まぁ、そんな改変しても、パクリはパクリですけど(笑))。

 

以上を踏まえて早速話を始めると、まず、科学の発展に伴い、偉い人が物質をとことん小さく小さく分けていった結果、「物質の最小構成単位は原子だ」という事実に人類は行き着きました。

中学理科ではそう習う通り、これはある意味正しく、例えば水を細かく細かく分けに分けて見ていくと、最終的に「水」という性質をもつものはH2Oという1分子に行き着くわけですけど、これを更に分けると(最早水ではなくなりますが)2個の水素原子と1個の酸素原子となり、それ以上細かく分けることはできません。

どんな化学反応を調べても、水からは水素と酸素を含む物質しか生まれないし、反応相手の分子も考慮すると、必ず水素と酸素が2:1の比で使われていることが分かっていたから、そう断言できていたわけですね。

 

しかし、前世紀=1900年代、めちゃくちゃ頭のいい偉い人たちの手によって、実は原子というのは更に小さい粒子=素粒子が集まって出来たものであるということが判明しました。


それが、今まで散々見てきた陽子・中性子・電子であり、まぁ前二者は更なる科学の発展で更に細かく分けられることが判明するわけですけどそれはまぁ今はどうでもいいとして、研究を重ねた結果、この素粒子には驚くべき性質があることが分かったのです。


それが話の本題である「素粒子の自己同一性」、つまり、水素原子と鉄原子は完全に異なるものとして区別が可能なわけですけど、これらは実は素粒子の数と相互作用が異なるだけであり、構成要素そのものである素粒子自身は全く同じもの=一切区別がつかないものである……難しく言うと「自己同一性をもたない」物質だという点ですね。


ご質問にあった「同じと考えるしかないのか、あるいは厳密に同じなのか?」という点に関しては、ズバリ、「厳密に同じであるばかりか、自己同一性をもたないことから、俄かには信じられないような挙動を示す」とさえいえるものになっています。


何が「俄かには信じられない不思議な挙動」なのでしょうか。


まず、普通の粒子である、赤玉と白玉の例を考えてみましょう。

この2つのボールは、色が違うため各々を完全に識別可能になっています。

箱の中にボールを入れ、めちゃくちゃに混ぜた後で箱を開いても、100%確実にどちらか赤玉かどちらが白玉かは判別可能…というか目が見える限り一目瞭然のことですね。

なぜなら、これらのボールは色という違いがあって区別可能だから、つまり、「自己同一性をもつから」といえるのがその理由になります。


しかし、これが素粒子の場合、そうはいきません。

2つの電子……まぁここでは右手に持っている方を電子1、左手に持ってる方を電子2と名前をつけて箱に入れてやる実験を考えてみましょう。

(もちろん実際は電子のみを安定して単離することなどできないので、あくまで空想実験にはなりますが、それができたと仮定して、ですね。)


このとき、箱を閉めてめちゃくちゃにかき混ぜた後箱を開けたら、もちろんこの火葬実験では2つの電子はそのままそこにあるわけですけど、「どちらが電子1だったのかどちらが電子2だったのか」の区別は全くつきません。

なぜなら、改めて、電子というのは自己同一性をもたない粒子であり、区別することが絶対にできないからですね。


まぁここまでなら何も不思議ではないというか、そらそうだろ、としか思えないわけですけど、話はここからです。


例えばボールの話で、全く区別の付かない赤玉2つを使った場合……

本当に傷1つ付いていないし見た目で全く違いのないボール、ここでは「赤1」と「赤2」という名前をつけておきますが、その2つを使った場合、箱を混ぜて開けた後、どちらがどちらなのか我々の目には区別が付かないけれど、しかし、神視点とでもいいますか、現実的にはどちらかが赤1でどちらかが赤2であることには間違いがないわけです。


これは実験的に容易に証明可能なことでして、例えば1つの箱に入れて混ぜるのではなく、

「ボールを適当に放り投げて、箱Aと箱Bのどちらかに、完全にランダムで入る」

という実験を考えることにしますと、施行後、どのようなパターンの結果がどの程度の割合で得られるでしょうか?


これは中学数学レベルの確率の話で、結果は当然、

  • 箱Aに2つ
  • 箱Aに1つ・箱Bに1つ
  • 箱Bに2つ

の3パターンに落ち着くわけですけど、確率としては、真ん中の事象は、

「Aに赤1、Bに赤2」「Aに赤2、Bに赤1」

の2パターンがあるため、上記箇条書きで並べた3つの事象は、1:2:1の確率で発生することになるわけですね。


実際に1億回やれば、ほぼ間違いなく、約2500万回:約5000万回:約2500万回に落ち着きます。


しかし!

 

これが、自己同一性をもたない素粒子である、電子の場合だとどうなるでしょう?

 

察しのいい方でしたらもう予想可能でしょう、普通の物質(粒子)であるボールの場合、

「Aに赤1、Bに赤2」「Aに赤2、Bに赤1」

は区別可能だったわけですが、なんと、素粒子である電子の場合、「我々の目には区別が付かない」を通り越して、「理論上、その区別を考えることが、原理的にできないものとなっている」という話になっており、

「Aに電子1、Bに電子2」「Aに電子2、Bに電子1」

という事象は、そもそも区別うんぬんを考えること自体が不可能となっていまして、両者は同一の事象であるとみなさなければいけない、すなわち、

  • 箱Aに2つ
  • 箱Aに1つ・箱Bに1つ
  • 箱Bに2つ

という3つの実験結果は、まさかのまさか、1:1:1の確率で発生する形になっているんですね!


これは、「理論上そう考えよう」とかいうヌルい話ではなく、(僕は具体的なその実験方法までは分からないものの)適切な実験を行えば現実世界で実際にそうなることが確かめられているものになっているのです。

(もちろん「1つの電子」ではなく、「多くの電子を用いて統計的に」にはなりますが、議論のキモである「区別うんぬんがつかない」ことは、実際の素粒子を使った実験で本当に実行しても、マジで確実にそうなる、って話なんですね。)

 

「いやそれは流石におかしくない?だって元々右手にあったものがAに入るかBに入るか、左手にあったものがAに入るかBに入るかはそれぞれのパターンがあるんだから、『分かれて入る』のは絶対多くならなきゃおかしいじゃん。

 それを『分けて考えない。自己同一性がないからね』とかいって無視するのなんて、確率の概念が崩れるっていうか、地球上にそんなものが存在するわけなくね?」

…という気がするかもしれませんけれども、「いや、素粒子はそう振る舞うんだ。実際に現実世界で確認可能」となってるんですから、これは本当に意味分からなすぎて腹立たしい限りです(笑)。

 

とはいえ、そんな誰しもが思う疑問も、日本史上最高の鬼才の1人、朝永さんはめちゃくちゃ分かりやすい説明を用意してくれており、それが、有名な「電光掲示板の光の例」なんですね!


前回リンクを貼った続きの記事である「4 自己同一性をもたない「粒子」はあり得ないものではない」ページにて画像付きで解説されていますが、画像もまぁ、一瞬で作れるものだったので、パクらずに自分で作成してみました(本当はGIFアニメーションのように、光る順番に動くGIF動画にしようかとおもったんですけど、あまりにも意味のなさすぎる作業だたのでやめました(笑))。

 

以下、こう考えると、「自己同一性をもたない『粒子』があり得ないものではない」ということが、地味に納得できる形になっていると思われます。


まず、電光掲示板みたいに、電球が並んでいるボードを考えます。

純化のために、文字ではなく、1つの電球ずつが光る状況を考える感じですね。

8×8で、64個の電球が敷き詰められたのが、以下の図です。

 

話は単純で、はじめ、AとBに電気を点けるとしましょう。

1秒ごとに1つずつ点灯電球をスイッチなりで動かしていくとしまして、矢印のような流れで、AとBそれぞれの明かりがCまで移動したとします。

ここで、Cは2倍の明るさになって光るわけですが、さらに移動を続けて、この光が最終的にDとEの位置に移動した状態を考えましょう。


このとき、「最後に光っているDとEはそれぞれ、AかBどちらの光由来のものか?」と問われた場合、これはどう考えても、

「それを考えるのは意味がない。だってCで2つの光が完全に混ざった時点で、その後分かれたもののどっちがAから来たものでどっちがBから来たものかなんて、分かるわけがないんだから」


としか言えないわけですね。


ところが、これが「AとBにボールを置いて、ボールの移動を考える」ような例の場合、分かりやすく赤玉と白玉の例に戻しますと、A・Bそれぞれにボールを置いて、同じような移動をして、最終的にDとEにボールを置くパターンを考えた場合、AとBにボールを置くパターンは2通りあるし、DとEに置くパターンも2通りあるのは明らかです。


なぜなら、両者は異なる色という自己同一性があって、区別をつけることが可能だからですね。

(もちろん、両方全く同じ赤玉の場合、「AとBの区別とかつかないじゃん」と思えてちょっと議論がややこしくなりますけど、部屋Cに玉が2個来た後、どちらをDに流してどちらをEに流すかは、一応Cにいる人が決めることは可能=最終的な見た目に違いはなくとも、異なるパターンを産み出すことは可能といえます。)


しかし、電球の場合は、同時点灯した光に区別を付けることなど不可能なので、赤玉の例とは違い、意図的に、神視点を用いたとしても、「どちらから来たものをどちらに移す」という選択すら不可能になっているわけです。

 

この違いが、「2つの箱に2つの素粒子が入るパターンが1つしかなかったのと、同じ事情といえるのである」……と元記事でもまとめてくれているわけですけれども、まぁ正直、ちょっと狐につままれたというか若干詭弁っぽさは感じるかもしれないものの(笑)、とはいえそう言われれば「確かに、現実世界でも、その電球の流れを分けて考えるのは不可能で、このパターンの光の移動は完全に1通りしか存在しないな」と納得いく素晴らしい説明になっているのではないかと思います。

(実際自分が昔読んだときはえらく感動したものですけど、いざ自分が説明してみるとなると、案外難しいというか、「両方赤玉で考えたら、外から見た動きのパターンは1つになっちゃうし、あんま納得できないっちゅうか、ちょっとややこしくならん?」という感覚もあるかもしれません(笑))

 

そんなわけで、果たして上手い説明になっていたかはやや疑問符がつくものの、これが素粒子の同一性を考える上でとてもいいきっかけとなるエッセンスって感じだといえましょう。

(やっぱり、元記事の方が明瞭な記述になっているので、イマイチ「は?」と思われた方は、リンクをご覧いただくことをオススメかもですね(笑))


結論としては、「素粒子は完全に同一で、一切の区別がつかない(=自己同一性をもたない)。『人間が見て区別がつかない』を通り越して、『神視点でもつかない』レベルであり、直感では、パッと聞きニワカには信じられないような確率論的な挙動すら示す」という感じですね!


では、次回もまたご質問の続きを見ていこうと思います。

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