青い花・英語版で気になった所を挙げていこう:8巻その5

ついに今回で、「SBFで気になったポイント」シリーズもおしまいですね。

早速最後の2点を見ていきましょう。

メインは、ラストシーンに近いあの場面です。日英表現の違いから、またとても面白い考察をいただけました。

Frankさん自身にも楽しんでいただけたようですし、これは指摘しておいて(気になっておいて)良かった点といえそうですね。

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(8) p. 185:"AND I FELT LIKE CRYING."(「そして泣きたい気持ちになった」)

これまた既に訳注でも指摘していたんだけど、最後のコマのこの文、日本語版原文のナレーションとは、ほんの少し違っているね。

とても詩的な感じで英語にするのが難しいんだけど、原文だとここでは直接「涙」や「泣くこと」には触れておらず、"as if overflowing and disappearing."みたいな意味の表現になってるよ(※注:原文は「すぐにこぼれてなくなりそうで」)。

もちろん、この表現は実際涙を暗示しているようにも思えるけど、やはり直接的にそうは書かれておらず、一種の詩のような表現だね。

(だから、SBFの文がちょっと違う感じになっているのも理解はできるかな(ちなみに、最初の2文は英語版と全く同じだよ)。)

 

A. ああ、面白い。特に、考察本の「感情の失禁」の章で、このラストシーンについて書いた際、日本語テキストでもこのページで"overflowing"という言葉を使っていることを知らずに、"overflowing emotions"(「溢れる感情」…こぼれると同義ですね)という言葉を使っていたということがあるから、一層面白いね。自分の分析に正当性を感じるよ :-)

しかし、"disappearing"(「消える・なくなる」)とは?志村は一体どういう意味でこの言葉を使ったのだろうか?…という疑問が湧いてきた。いくつか予備的な考えがあるが、もう少し考えてみる必要があるだろう。以下が最初の試みだ:

漫画の絵に関する側面の批評は得意ではないが、このページの前後に鎌倉の街並みや風景のシーンがあることにまず注目してみたい。誰しもが知っているように、一見すると物語の他の部分と切り離された画像を挿入するのは、漫画ではかなり一般的な手法である。小津安二郎が映画の中で重要なシーンの前後に挿入した「ピロー・ショット」を彷彿とさせるものでもある(※小津映画で特に有名な、場面のつなぎ目に挿し込まれる、何気ない風景や日常の静物といった無人のショットとのことですね)。

こういったイメージと「消えた」とはどのように結びつくのであろうか?あきらは、作中でずっと、「自分の頭の中で生きすぎている」こと、つまり、ふみとの関係に対する疑問や不安で頭がいっぱいであることに苦しんでいる。

p. 184と186の絵には広い視点が取り入れられており、その中で、あきらの不安や疑問が次第に些細なものになっていく(消えていく)かのようである。

イメージの移行に注目されたい:人間中心の街並み(p. 184の2コマ目)から、街の向こうに見える月(3コマ目、夏目漱石の有名な表現を思い起こさせる美しい満月)、それから陸・海・空の三つの自然が織りなす人影のない風景(4コマ目)、そして最後に海と陸の境界がやや不明確な海岸のような、抽象的な絵(5コマ目)へと移っていく。

この広い視点から、p. 185のふみとあきらのクローズアップに戻り、我々読者は(そして彼女らも)、二人の関係を新たな視点から見つめ直すのである。


「こぼれてなくなる」ことに戻ろう:あきらは自分自分自身とふみの間にバリア(障壁)を作ってきたが、p. 185では、壁が降り始めている。あるいは生物学的に言ってみるとすれば、細胞壁が穴を持った多孔質になっていくようなもので、あきらがふみに感情をぶつけ、ふみがそれに応えていくといえよう。

そしてもちろん、細胞壁が多孔質になるということは、細胞が融合することの前触れであり、それはあきらとふみの関係の暗喩として見ることができる:彼女たちは孤立した個人としての地位を失い、カップルとして結合し、「お互いに消えていく」のである。


「こぼれてなくなる」のもう一つの可能な意味を考えてみよう(そして恐らく生物学的な意味よりも、こちらの方があり得る):水がボウルから溢れてこぼれたとき、その水はどうなるだろうか?それは、すぐに(地面に染み込んで)か、あるいはもっとゆっくり(蒸発して)にせよ、消えていくのである。

だから、あきらは自分の感情が溢れてこぼれていく内に、ネガティブな感情―ふみとの関係に対する不安―が、実は正当なものではないことを理解し、その感情が消えていく―つまり、それについて気にしなくなる、あるいは少しずつでも気にならなくなっていく、ということなのだ。そしてそれは、ふみに対しても同じことが言えるように思う。


とはいえ素人分析はこのくらいにしておこう。いずれにせよ、"I felt like crying"の方が読者には分かりやすいのだが、私は"as if overflowing and disappearing"という詩的な表現が本当に好きである。

詩的な表現というのは日本文学の魅力の一つだと思えるが、p. 185で欧米の読者にとって読みやすくするために、翻訳者がそれを削ってしまったのは残念なことに思う。


p. 185についてもう一つ気になる点がある:日本語のテキストには、ここで書かれている思考があきらによるものなのか、それともふみによるものなのかを示す何かは存在するのだろうか?

私の考えでは一貫して、志村は、あきらとふみのどちらの考えにもなり得るという曖昧さをここで意図しているように思う。原文がその考えと一致しているかどうか、気になる所である。

⇒(追加メッセージ:)より正確には、"as if immediately overflowing and disappearing"だったね(「すぐに」という語を入れ忘れてしまった。あるいはimmediately(即座に)よりも、soonの方が近い意味かもしれないけど)、不完全な描写で申し訳ない。

…しかし、毎度本当に、非常に面白い考察だね!

ちなみに日本語でも、SBFと同じように、この台詞(独白)がどちらの考えなのかを判断するための情報は、完全にゼロだよ。

同じく、志村さんは意図的に曖昧にしていると思う……か、もしくは二人とも同じことを思っている可能性があるね。


(追加の独り言:)
大変興味深いポイントで、場面の転換の描写とか何気なく見過ごしていましたが、確かに、そういう意図もあるのかもしれないね…!…と、とても面白かったです。

まぁ、生物系の専門家としては、説明文のあの部分は細胞壁ではなく細胞膜の方が正しいかもね、とは思いましたけど(細胞壁は元々穴だらけですし、融合という話とも相容れないので)、しかし、言わんとしていることはもっともな、大変に良い考察でした。


最後1つ、しょうもない翻訳ミスでおしまいですね。

 

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(8) p. 191:"I didn't know if that feeling was strange."(「その気持ちが変なのかどうかはわからなかった」)

最後は「あとがきにかえて」の部分から、非常に面白い翻訳エラーだね。

この文、漢字の「恋」(love) と「変」(strange) がとても似てることが原因だと思われるんだけど、実際の日本語は、"...the feeling was love (or not)"(原文:「その気持ちが恋なのかどうかはわからなかった」)だよ。

全く逆のニュアンスになってしまっている!

 

A. はい、これも改訂版の付録・誤植の候補だね。

文脈からすると、"the feeling was love (or not)" の方がずっと意味が通る。

最終ページなので、翻訳者の目が疲れており、漢字を読み間違えてしまったのかもしれないね :-)


以上、翻訳に関するコメントをお寄せいただき、本当にどうもありがとう。

誤訳の箇所のみならず、登場人物が語っているニュアンスなど、興味深いものが大変多くあった。Thank you again!

 

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…といった所で、せっかく手にしたので楽しませてもらったSBFこと青い花・英語版であるSweet Blue Flowersの、個人的に気になった英訳箇所でした。


内容に関する話は以上ですが、見ていて英語表現として面白かった点を取り上げる「青い花で学ぶ英語」コーナーは、(こないだ書いていた通り)今回1つ見て、まだあといくつか残っている形になったので、まぁ取り立てて単独で取り上げるほどのものでもない項目しか残っていないんですけど、記事の水増しを兼ねて、次回そちらをまとめる感じで、とうとうSBFネタもラストという形ですね。

(…と思っていましたが、今回はこのコーナーがなくてもいい分量になっていた&ちょっと時間がなかったこともあり(いつもより1時間遅れの投稿でした)、今回は省略して次回まとめて触れようと思います。)


そのSBFですが、まぁ言うまでもなく僕は母語が日本語なので当たり前ですけど、断然日本語版オリジナルの方が好きとはいえるものの、当初危惧していた「志村さんの醸し出す素晴らしい間や空気は、英語でもちゃんと残っているのだろうか…?」という点については、これが案外(英語を母語としない人の目から、ですが)ちゃんと見れる形になっていて、ホッとした感じといえるかもしれません。

まぁ漫画はやっぱり絵ありきですし、志村さんの絵の魅力は不変・普遍であったという所でしょうか。


SBFを読んで青い花の魅力に改めて……ということはまぁ特になかった気もしますけど(改めて、日本語の方がやっぱり良いので)、大変面白く、素晴らしい経験でした。

こうなると放浪息子の英語版、Wandering Sonも読んでみたいですけど、8巻までしか刊行されていないというのが、くぅ~、残念だ……というか、何度も書いてますけど、英語圏の読者の方が(いい所で終わりすぎていて)可哀想すぎますね。


あぁそういえば英語版について1点触れようと思っていたことを思い出しましたが、この記事で書いていたFrankさんへの最後的なメッセージで、「同じ作品を複数回買うとは、まさにグレイテスト・リーダーだね」ということを本人に送ったら、「いや、私はgreatest readerではないよ」という旨の返事をいただいていました。

その中に1点また面白い話があったので、最後またそちらを紹介させてもらおうかと思います。


-----Frankさんからの返信-----

まぁ、志村の作品のごく一部しか読めていない時点で、「偉大な読者」にはなれないんだけどね :-(

志村作品の内、英語で読めるものが少ないのは非常に悩ましいんだ。

例えば、数年前、私は"Happy-go-lucky Days"(どうにかなる日々)の英語版2冊を購入した(デジタル版のみ)。

ところが数週間前、謎の理由で、私のKindleから消えてしまったんだ。(日本の出版社が、アメリカの出版社がもうライセンスを保有していないことに気が付いて、アマゾンに依頼して顧客のキンドルに入っているコピーを全部消してもらったからではないかと思う。)


というわけで、『放浪息子』の英語版はほぼ間違いなく完成しないため、志村作品の完全英語版はSweet Blue Flowersと、Even Though We're Adults(おとなになっても)だけになりそうである。

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…なんと!購入した漫画が、無断で勝手に読めなくなるとか、そんなのあり?!

確かに、Amazon.comから、Happy-Go-Lucky Daysの漫画版は、存在が消えてしまっていますね…。


僕は電子書籍肯定派ですけど、ライセンス切れでも、読者は購入したわけだし、そりゃないんじゃないの?!…って気がしてしまいますが、多分契約(Amazonとカスタマーの契約)として電子書籍とはそういうものだという風になっているように思われるので、泣き寝入りしかないのかもしれませんね…。


放浪息子もやはり続刊の希望はほぼないようですが、今の時代に間違いなく必要な作品だと思いますし、『おとなになっても』の刊行が終わったら完結記念とかで、どうか、欧米のファンにも続きを届けてあげて欲しい限りです。

何か協力できることがあればぜひしたいぐらいですけど、まぁ自然な英訳とかは僕には無理なので、「ホレ、台詞全部英訳しておいた、無償でいいから使ってくれ」みたいなこともできませんし(まぁ、できたとして、そんなのが協力になるのかは不明ですが…)、ここはお祈りをするしかない所かもしれませんね(恐らく、こういうのは作者である志村さんの力をもってしても、「じゃあ作ろう」で作れるものじゃないと思いますし…)。


ビジネスなので難しい面もあるのは重々承知ではありますけれども、Frankさん他、世界中多くの人に志村さんの他の傑作も届けられる日が来ることを願ってやみません。

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放浪息子の表紙も終わりに近付いてきました。確かユリイカ志村さん特集号で、インタビュアーの方が「息を呑んだ」と表現されていた14巻の表紙ですね。まさに同意見といえる、本当に繊細な素晴らしい絵だと思います。)

放浪息子』14巻表紙、https://www.amazon.co.jp/dp/B00CPEBE0Yより

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