青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その32:停止性問題・嫉妬心、同じだね

今回はまたセクションタイトルに関する補足をいただいていたので、そちらから参りましょう。

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"The halting problem":これは、コンピューターサイエンスにおける有名な問題を指している:https://en.wikipedia.org/wiki/Halting_problem。同Wikipediaの日本語版記事によると、これは「停止性問題」と表記されるようだ。 


"Equally jealous":ここには、ちょっとした言葉遊びがある。明らかな意味としては、あきらが、過去のふみと同じように嫉妬という感情を持つようになったというものだ。

しかし、あきらがこういった感情を抱くということは、ふみとの関係がある程度、より同じもの(等しい関係性)になった、という意味も込められている。

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今回は青い花のエピソードタイトルについて触れている部分もあるようなので、ちょうど、最終巻の目次をトップ画像としてペタリと貼らせていただきましょう。

残念ながら英語版の最終巻(日本語版でいう8巻)の目次は、巻の途中でお試し読みの範囲外なため、日本語オリジナル版の最終巻からの拝借です。

日本語版8巻目次・https://www.amazon.co.jp/dp/B00IWMC15Kより

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第32回:179ページから183ページまで)

停止性問題

なぜ、『青い花』はこの結末を迎える所で終わるのだろうか?それに答えるために、別の質問を一つ、いや、いくつか複数見てみるとしよう:漫画作品はいつまで続けばいいのだろうか?いつまで続けられるのか?永遠に終わらないことはあるのだろうか?

 欧米のコミックでは、この最後の質問に答えることはできない:著作権や商標を企業が所有しているため、人気コミックは企業そのものであるかのように、永久に存在し続けることはあり得る。どのコミックが出版を停止し、どのコミックがそうならないかを予測することは不可能だ。

 一方、漫画は作者の死を免れないという考え―つまり、長寿作品でも、いつか終止符が打たれるという考えが存在する。しかし、その日はすぐに来るわけではないと言えよう*1

 永続性のあるわけではない漫画でも、商業的な成功によって、読者のもっと楽しみたいという欲と出版社の利益を追い求める欲とを満たすために、ストーリーが引き伸ばされ、連載期間が延長されることがある。また逆に、連載が終了する前に打ち切られ、物語が中断されたり、結末まで急展開を強いられることもある。

 では、『青い花』はこの図式において、どこに位置するものであろうか?この作品は、全八巻(日本語版)と、日本漫画の標準からすると比較的短い。例えば、『放浪息子』は15巻まであったし、30巻や40巻まで続く漫画も珍しくはない。

 『青い花』は早々に打ち切りの形で終わってしまったのではないか、という憶測を時折目にする。確かに、最後の方の章は、やや急ぎ足に見える。例えば、志村は第51話で、あきらの心変わりを全知全能の語り手に告げさせるという(『青い花』(8) p. 145/SBF, 4:325)、より緩やかな展開進行や内心の独白で示すのではない、手っ取り早い方法に頼っている。

 一方、志村が漫画を終わらせたい所で終わらせ、漫画が自然な終着点に到達したからこそ終えられたという言い分もある。

 まず第一に、なぜ52話で終わらせたのであろうか?志村は、52話からなる吉屋信子の『花物語』へのオマージュとして、このような終わり方を選んだのかもしれない。最終話のエピソードタイトルが漫画のタイトルと同じ「Sweet Blue Flowers」(日本語版では「青い花」)となっているが、これは第一話のタイトル「Flower Story」(「花物語」)が吉屋信子の『花物語』のタイトルを冠しているのと同じである。

 もしこれが意図的なものだとすれば、私はこれを、志村が吉屋と、エス的な人間関係の理想と、それからエスという文学ジャンルとに対する一つの呼びかけとして、その立場を微かに強調させながら本連載を完結させたのではないか、と見ている。

 第二に、なぜ物語をこの時点で終わらせたのであろうか?異論の余地はあれどほぼ間違いなく、ふみとあきらが高校を卒業したこの時点で、物語をまとめあげる一区切りがついた形だったのであろう。この作品は概して、日本の女子学生の生活を描いた多くの他の漫画と同様、一年を通した学校生活のリズム、特に夏休みや藤が谷の演劇祭を中心に構成されている。

 そのリズムがなくなると、プロットの根底にある枠組みが崩れ、漫画は結末に向かって動き出すわけだ。この作品では、登場人物たちが大人になり、京子が康と結婚する形に落ち着き、ふみとあきらが新たな局面を迎えるまでしか描かれていない。

 個人的には、志村は、象徴的な数字ともいえる52話で物語を終わらせるために、若干完結を急ぎすぎたようにも思う。しかし、物語の筋的には、ふみとあきらが共に過ごしていくこの先の人生の続きを読者に想像させる形を取りながら、志村は『青い花』を本来の意図通りに、きっちり終わらせたのであろうとも信じてやまない。

 

同じように、嫉妬

前節で、志村貴子はなぜ『青い花』をここで終わらせたのだろうと考え、物語が自然に停止する地点に到達したのだと結論づけたが、結末はいささか駆け足であった。その早足の結果として残念なのは、あきらにとってのふみとの関係が、ややぼやけた解決になってしまったことがある。

 高校卒業後、ふみとあきらの関係は、あきらが、もうこれ以上関係を続けることは不可能だ、と思う所まで来ていた(『青い花』(8) pp. 138-40、143/SBF, 4:318-20, 4:323)。この時点で、物語はいくつかの方向に進むことが可能であった:あきらとふみはこのまま離れ離れになって、これ以上接触することなくそれぞれの人生を歩むことが可能であり;ふみが他の誰かをパートナーに見つけながらも、あきらがふみの親友として関係を続けるという和解も可能であり;あるいは復縁して、カップルという関係で再出発を試みることも可能であった。

 もし『青い花』の主人公がふみであると仮定し、本作自身が現実的なフィクションであるとするならば、最初の二つのシナリオのどちらかが最も理に適っているといえるだろう。日向子との会話や、ポンが自分の体験に基づいた劇を書いたことで、ふみはレズビアンを自認するようになった。論理的に自然な次のステップとしては、同じように自認している別の女性と新たな関係を築くことだといえよう。特に、ふみは大学に通っている間に他の誰かと出会う可能性もあったのだ―実際、作中では、彼女の新しい友人、森英恵の登場により、その方向性が示されている(『青い花』(8) pp. 144-6/SBF, 4:324-26)。

 しかし、その後判明するように、英恵にはボーイフレンドがいるので、ふみと英恵の友情は単なる友情であり、交際の前哨戦になるものではない(『青い花』(8) p. 153/SBF, 4:333)。しかし、我々読者はそれを知る前に、ふみと英恵が一緒に話したり笑い合ったりしている場面をあきらとともに目にすることになり、あきらは、どうやらふみが誰か他の人を見つけたらしいということに対して、嫉妬の心が湧き上がる((8) pp. 146-7/4:326-27)。

 あきらの嫉妬が、物語の最後の部分を動かすことになる。しかし、なぜ嫉妬なのだろう?これは、あきらに、ふみからの愛に対する自分自身の優柔不断さと迷いを克服させるための、デウス・エクス・マキナ(※訳注:「どんでん返し」の一種で、物語が解決困難な局面に陥った時、絶対的な力を持つ存在(神)が現れ、混乱した状況に一石を投じて解決に導くという演出技法の一つ)のように、むしろいわば陳腐で不器用な方法のように思えるのだ―そうすることで、できるだけ少ないページ数に収めるための―。

 だが、幾分ぎこちないものではあったとしても、なぜこの展開が『青い花』のストーリーやテーマの中で意味を持つのか、説明することはできるように思う。あきらの嫉妬心や、それがもたらすあきらとふみを引き合わせるための役割というものは、これまでのプロットでも部分的に描かれているのである。

 以前の章で論じていたように、この作品の中核的なテーマの一つは、人間関係における平等性の価値に重きを置くことである、という仮定から出発しよう。ここで、作中で展開されるふみとあきらの関係が、明白に不平等であることを念頭に置いてみる。ふみはあきらに対して強い恋愛感情や性的魅力を覚えているが、あきら自身はそれに応じない―あるいは、あきらの視点からは―応じることが不可能になっているのだ:「脳と身体が全然追いついてないかんじ……」(『青い花』(8) p. 139/SBF 4:319)。

 ふみとあきらの関係―および、特に、二人がそれについて抱く感情―は、どうすればより対等なものになり得るのだろうか?ここでは二つのポイント、一つはあきら、もう一つはふみについて注目してみると良いであろう。あきらはふみに強い恋愛感情や(特に)性的な魅力を感じているわけではないが、決して無感情なわけでもない。以前の節で述べていたように、あきらは幸福感や友情といった感情も、怒りや苛立ちといった強い負の感情も、完璧に感じて表現することができるのだ。

 ふみもまた、強い負の感情、とりわけ目立つのは嫉妬心を示すことが可能である。千津の結婚に対するふみの怒りは、そのせいで千津に捨てられることになった(少なくともふみの目にはそう映る)、千津の夫に対する嫉妬と明らかにつながっているように見える。そしてもちろん、恭己の各務先生への思いに対するふみの嫉妬は、二人の別れの大きな要因、もしかしたら最大の要因であったことであろう。さらには、あきらと康が付き合っているかもしれないという考えは、(当然)自ら否定しておきながら、そのことを考えると頭が痛くなってしまうのである:「私は嫉妬すると こめかみが痛くなる」(『青い花』(3) p. 156/SBF, 2:156)。

 そのため、ふみが他の女性―あきらにとって(ふみの高校時代の友人とは違って)未知の存在であり、したがって(あきらの考えでは)ふみの新しい恋人なのかもしれない女性―と気安く親しげに接しているのを見て、あきらが嫉妬に駆られてしまうというのは、漫画内における動機付けとして十分ではないにしても、テーマ的には適切なものだといえよう。

 物語のこの時点では、あきらの感情はあらゆる面でふみの感情には及んでいないかもしれないが、あきらが示した嫉妬の感情は、ふみが見せたどのものとも、同じ性質と強さを持つ。ある意味、(以前の節で述べていた)ふみの夢は実現したといえる:あきらはふみに対する戸惑いや躊躇いを超えて、自分の感情を吐き出したのだ。そして、嫉妬に押しつぶされた今、あきらはふみに対する自分の気持ちの進化が何を暗示しているのかを探るため、自分の心の中を覗き込むのである。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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青い花が全52話で出来ている秘密については、全く気付きませんでしたね。

本当の所は分かりませんが、もしそうだったら面白いね、という、志村さんによる粋な計らいという感じでしょうか。

 

一方、終盤の展開については、僕はそれほど駆け足という風には感じなかったですねぇ。

もちろん「終わらないで欲しい、永久にあーちゃんふみちゃん井汲さん(…以下略全員)のことを見ていたいぜ…!」という気持ちはあったので、単行本派でありながら「最終回を迎えた」という情報は聞いていましたし、とにかく惜しい気持ちはあったものの、僕の目からはほぼ完璧といえる展開だったように思えます。

 

この辺の終わり方や作品ロスに関して、僕は割と幼い頃(といっても中学生ですけど)に読んだ、(以前オススメ漫画ネタでも触れていた)『赤ちゃんと僕』で、羅川さんが、確か少女漫画にありがちなページ左端の1/4コーナーにて、

「本当に全力を出し尽くしたので、今は『何で終わるの?』『もっと読みたかった』『続編を書いて』という声より、『お疲れ様』という言葉をかけていただきたいです」

といった感じのメッセージを書かれていたのが強く心に残っており、やっぱり生命を削って作品を産み出されている漫画家の方には、どんな終わり方だろうと、たとえ物足りなかったり納得いかないものであったりしても、お礼の言葉を伝えるのが一番だな、とその時特に感じ入った次第ですね。


…とはいえ青い花放浪息子他志村さんの作品に関しては、本当に誇張抜きに終わり方も素晴らしく、最終巻はいつ読んでも心が震える感じです。

最終巻の素晴らしさといえば、やはり僕の中では恐らく永久にNo. 1であり続けるのが『めぞん一刻』なんですけど、僕はワイド版で読みましたが、最終巻の特に半ば辺りからは、各話のサブタイトル&扉絵に始まり、全ページ・全コマ・全台詞があまりにも完璧すぎて、全身の細胞が震え上がるかのような経験をしていたのです。

幸か不幸か僕はリアルタイムで『めぞん』を読んでいたわけではないので、喪失感とかはなかったんですけれども、果たしてリアタイで連載を追っていた方の衝撃たるやどの程度のものだったのか、これは中々想像しがたい点ではありますが、とにかく名作のみに許されるあの凄まじい勢いというか畳み掛け、これこそが漫画の醍醐味といえるように思えてなりません。

そして改めて、そう思える作品はそう多くはない中、青い花の最終巻もまさにそれに匹敵する、扉絵やサブタイからしてもう、1ページ1ページ全てが魂を揺さぶってくるかのような出来なのでした。

(まさに、志村さんに最も影響を与えた作品の一つであったはずの『めぞん』並びに高橋留美子さんの遺伝子が、脈々と受け継がれているのをまざまざと感じる点ですね。)


ちょうど、画像にも貼りましたが最終巻のエピソードタイトルについて、「乙女の祈り」に始まり「青い花」で終わるのはFrankさんが記事中で触れていた通りですけど、最終話直前の「第七官界彷徨」、これはWikipedia情報ですが、

最終回インタビューにて、インタビュアーの横井周子は「覚醒直前の、気持ちが揺れているあーちゃんにもぴったり」と絶賛し、作者も使うべきところまで温存していたと語っている。

とのことで、まさに気合いの入った、名作の最後を飾るに相応しいサブタイトルといえましょう。


…まぁ、僕は「第七官界彷徨」という小説は読んだこともなければ存在すら知らず、漫画好き的には「第七女子会彷徨…?」としか思えなかったわけですけど(笑)……

www.cmoa.jp
…とまぁそれは嘘で、もちろん「そういう元ネタがあるんだろうな」とは思えたし、非常にカッコいいタイトルに感じたのは間違いありません。

 

ところで全然関係ないですが今回のネタで気が付いた点として、以前の記事、考察文翻訳の本編も含め、各話のエピソードタイトルのことをしばしば「サブタイトル」と表記していたんですけど、ふと、「そういえばこれ、あんまり良くない呼び名かな…」という気が、寝ている時に突如頭に浮かんできました。

というのも、サブタイトルはサブ=副、タイトル=題で、字義的には副題、つまり例えば『珍遊記 -太郎とゆかいな仲間たち-』における「太郎とゆかいな仲間たち」の部分を意味するフレーズの意味合いが強く、僕が使っていたように「各エピソードに付いている題名」を指して言うのは、間違いとは言わないまでも、ちょっとややこしい表現だったかな、という気がするのがその理由で……

さらにいうと、そもそもサブタイトル=subtitleというのは、英語だとほぼ確実に映画とかの「字幕」を指す言葉になっていまして、むしろ日本語的な「副題」の意すら、ある意味で誤用に近いともいえる感じ(のはず)なんですね。


日本人的にはサブタイトルといえば副題だし、さらには派生して、サブ=「低位の」という意味から、作品全体のタイトルに対して各エピソードのタイトルのことを指すという使われ方もよくされる(というかその使われ方のみ)ので、字幕のことをsubtitlesと表記するのに個人的にはすごく抵抗があるんですけど、改めて、英語だとこの語は第一義に「字幕」の意味になる(字幕のことを言いたければ、普通にcaptionとかよりsubtitleを用いるのが普通だし、subtitleとあったら、副題という意味ではなくまず間違いなく「字幕」の意で使われている)ので、この語を使う際は注意しましょう、という、いきなりのちょっとした豆知識でした。


(「じゃあ英語では日本語でいう所のサブタイトルは何ていうのさ?」というのは、まさに↓に貼ったWikipediaの「サブタイトル」の項目にある通り、「英語では副題も込めて単に『タイトル』と呼ぶ」のが普通みたいですね。)

ja.wikipedia.org
なお、↑の記事には、『日本語では、エピソードタイトルも「サブタイトル」と表記されることがある』という注意書きもあったので、この点に気が付いた当初、「今までの記事で『サブタイトル』と書いてしまっていた部分は、『エピソードタイトル』に変えた方がいいかな…」と思っていたんですが、まぁやっぱり日本語の文脈的にはサブタイ=各話のタイトルというのは十分通じると思うし、そのままでいいかな、と考え直しました……という、割とどうでもいい翻訳裏話でした。
(なお、実際以前この語を用いていた際にも、実は何となくうっすら「良くないかな」という気分が心の片隅にあったので、たまに「サブタイトル」ではなくあえて「エピソードタイトル」だったり「各話の題」とかしていたりと、表記揺れしていたこともままあった感じです。
 Frankさんが翻訳版をPDF化してくれていますが、通して読んで表記揺れが気になった場合、修正しておこうと思います。)

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*1:100巻以上刊行されている漫画シリーズは少なくとも25作品あり、そのほとんどが一人の漫画家によって描かれている。"List of Manga Series by Volume Count," Wikipedia, last modified January 31, 2022, https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_manga_series_by_volume_count