青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その31:感情の失禁

今回はそのままズバリなセクション名ですが、最終巻のある1シーンから話が広がる感じですね。

そのシーンは…お試し読みの範囲にはなかったので、残念ながら画像はなしでぜひ実際の本をお手に取っていただきたいですが、硬派で真摯な百合作品といえる青い花にあって、作中随一の変態シーンともいえる感じでしょうか。

でもまぁ正直、「まぁ別にそんな夢ぐらい見るやろ」ともいえる何てこたぁないちょっとした場面ともいえるんですけど、そこはやはりFrankさん、考察しがいのあるシーンといえますし、目ざとくキャッチして考察を広げてくれたようです。


画像は、そろそろ本編の考察も終わりが見えてきた所で、最終巻の表紙で飾らせていただきましょう。

英語版4巻表紙・https://www.amazon.com/dp/1421593017/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第31回:175ページから177ページまで)

感情の失禁

青い花』初読時、第50話でふみが見ていた、幼いあきらの漏らしてしまった尿が脚まで伝わり、幼いふみがそれを舐めるという奇妙な夢の意味が分からなかった(『青い花』(8) pp. 109-12/SBF, 4:289-92)。

 しかし、そこで思ったのは、失禁とは何だろう、ということだ。失禁というのは、自分自身の身体が制御不可能な状態に陥り、無意識に体液が放出されることである。社会的な文脈では、この制御不可能な状態は、公衆での羞恥心や困惑に変換される―適切な社会的行動に関する社会規範(要は、排尿の、適切な場所と時間のみへの制限)を破ってしまったことによる困惑と、その違反を他者に見られてしまうことによる恥ずかしさである。

 涙もまた、不随意的に体液を放出する例であり、この場合は、自分の感情が制御できなくなったことが原因となる。泣くことは、公共の場での失禁に比べれば、遥かに軽い社会的違反である。しかし、社会的調和を重視し、私的な「顔」とは異なる、より落ち着いた公的な「顔」を維持することに重きを置く社会では、公然と人前で泣くこともまた、ある種の違反とみなされる可能性はあるかもしれない。そうであれば、涙もまた恥と当惑を引き起こし得る可能性もあろう。

 そこで、ふみとあきらの話になる。あきらが幼なじみのふみとお互い誰なのか知らずに電車で出会い、母親同士が再会した後、母親はあきらに「ふみちゃんて覚えてない?」と聞く(『青い花』(1) p. 28/SBF, 1:28)。続く回想では、幼いふみがトイレに間に合わず、クラスメイトが他のクラスからあきらを呼び寄せて手伝いを求める((1) pp. 29-30/1:29-30)。(これは、ふみにとって今回が初めてではないことを暗に示しているといえよう)。あきらは状況を掌握し、ふみを保健室の前まで連れて行き、綺麗にして着替えさせる((1) p. 31/1:31)。

 一言で言えば、幼いふみは自分をコントロールできない人間、特に自分の身体をコントロールすることができない人間である。恐らく小学生になって以降、ふみは幼少期の失禁を克服したと思われる。それでもなお、引き続き泣くことが多いのは、自分自身の、この場合は感情の制御ができないという側面の一例を示している。

 あきらは、自分の身体と感情をコントロールできるので、ふみが身体面と感情面の両方のバランスを取り戻すことに介入し、助けることができる。幼いふみがお漏らししたときに事態を制御したように、あきらは幼いふみに泣き止むように促す(『青い花』(6) p. 138/SBF, 3:318)。ティーンエイジャーになったあきらは、かつてふみの下着を乾かすのを手伝ったように、ふみの涙を乾かしながら、二人の関係において冷静な人間であり続ける。

 しかし、あきらの自制心は、あきら自身の中の、特定の感情の欠落にも思えるものを伴っている。特に、あきらはふみを含む誰に対しても、強い恋愛感情や性的魅力を感じない(感じることができない?)。また、大っぴらに泣くこともない(できない?)。一般的に言って、あきらは無感情なわけではない:作品を通して、あきらが喜んだり、怒ったり、恥ずかしがったり、緊張したり、困惑したり、取り乱したりしている姿は認められる。しかし、作中のほとんどで、彼女が他人の前で泣く姿は見られないのだ*1

 恋することと泣くことは、あきらの中ではつながっている。心の中で、あきらは「あたしもこの先誰かを好きになって ふみちゃんみたく泣いたりしちゃうのかなぁ  ふみちゃんはよく泣くよなぁ……」と考えている。(『青い花』(3) p. 66/SBF, 2:66)。ふみに「泣き虫」にならないようしばしば忠告しているのだから、仮にあきらが恋愛に対しても少なからず偏見を持っていたとしても、驚きには値しないだろう。

 もちろん、これはふみにとっては非常に不満なことだ。彼女はあきらに強い恋愛感情と性的魅力を感じているが、その感情を、あきらはふみに対して感じていない(感じることができない?)。その意味で、あきらが失禁する夢は、ふみによる、あきらが自制心に縛られて恋愛をしないことから解放されて欲しいという願望の表れではないかと、私は考えている。ふみは無意識の内に、ちょうどふみ自身が自分の感情に屈しているように、あきらにも恋愛で自分が制御できなくなってしまうことを望んでいるのだ(『青い花』(8) p. 110/SBF, 4:290)。

 幼い頃のあきらとは異なり、夢見るふみは、あきらの失禁を、かつてあきらが自分にしてくれたような、自分が介入してあきらの自制心と感情のバランスを回復する機会だとは考えていない。そうではなく、ふみは、あきらが制御不能になることを歓迎するかのような態度で、激しく性的なものとして読み取れる反応を示す(『青い花』(8) p. 111/SBF, 4:291)。あきらが「やめて ふみちゃん」と叫ぶ夢を見たふみが、目覚めてから恥ずかしさのあまり顔を覆うのも無理はない((8) p. 112/4:292)。

 作中では、ふみの夢の他にもあきらと排尿に関するテーマはいくつか続いており、あきらがトイレに駆け込む場面が何度も描かれている(『青い花』(2) pp. 69、85、178、(3) pp. 35、139-40/SBF, 1:265, 1:281, 1:374, 2:35, 2:139-40 )。これはあまりにも頻繁に起こるので、志村が意識的にこれらのシーンを隠喩的に読まれるものと意図している、すなわち恐らく、あきらが表に出すことを我慢しているという、感情の抑圧を表現したものなのではないか、という結論に結び付けざるを得ない。

 これは、あきらがイギリスの恭己と川崎を訪れ、二人の家のトイレを緊急に使用しなければならない夢を見ることで締めくくられる(『青い花』(8) pp. 44-5/SBF, 4:224-25)。この、膀胱が(ほとんど)制御不能である様は、あきらの実際のイギリス旅行における感情の制御不能さと並行している。あきらが、ふみと自分たち二人の関係について恭己と話すとき、あきらの目が涙でいっぱいになることが見て取れるのだ((8) p. 74/4:254)*2

 『青い花』のラストシーンでは、最後にもう一度、涙の話題に触れられる。あきらの告白からしばらくして、ふみとあきらがふみの寝室で横になっていると、片方が心の中で、一晩中起きて話していたいとつぶやき、最後に「そして泣きそうになった」と結んでいるのである(『青い花』(8) pp. 185/SBF, 4:365)(※訳注:非常に重要な場面だが、日本語と英語では表現が大きく異なる。日本語版では、上記の結びの言葉は、「(話したいことが)すぐにこぼれてなくなりそうで」というものであり、暗喩的に涙を意味してるとはいえるものの、英語版翻訳とは違い、涙および泣くことについて直接的な言及はされていない)。志村は、それがどちらの考えなのか明示していないが、その曖昧さは意図的なものかもしれない:物語が終わるとき、恐らくあきら、そしてふみも、涙にふけることが、そしてついには溢れる感情に身を任すことが、自ら進んでできるようになっていることであろう。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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あーちゃんの涙といえば、他にも、マジ泣きではなくコミカルな感じだけど、鹿鳴館の上演後、「セリフとんじゃってごめんなさい!!」のシーンで泣いとらんかったっけ…?

…と思ってチェックしてみたら、台詞前のシーンでは微妙に涙を浮かべているかいないかぐらいの表情をしていたものの、実際のその台詞は、あーちゃんらしからぬとんでもねぇ顔(台詞の吹き出しに添えられた小さな顔ですが)をしてるだけだったので(笑)、実際確かに泣いてはいなかったんですねぇ。

…と、そこからページをパラパラしていたら、「横浜のおばさんちに奉公に出されちゃうよぉ」で、コミカルな涙を一応流していましたが、まぁこれはギャグ泣き(涙がちょちょぎれる程度)であって、やはりあーちゃんは人前で涙を見せない強い子だと、そういう感じですね。


あーちゃんのトイレやそもそものふみちゃんのこの夢のシーン他、色々軽く読み流している点がありましたが、言われてみればもっともで、相変わらず大変興味深い考察でした。


ただ、最後訳注でも触れましたが、ほぼ最後の最後の〆のモノローグ、これまた英語版の翻訳では、結構ニュアンスが変わってしまっている感じですね。

とはいえこれは、かなり詩的な表現なので、英訳するのは極めて難しいともいえる悩ましさもある所でしょうか。



関連して、今回のネタではないですが、今回はやや短めの章だったのでスペースを使ってこの機会に、同じく英語版青い花の翻訳ネタ、こないだの千津ちゃん再訪の章で見ていた点について、Frankさんからメッセージをいただいていたのでご紹介しましょう。


千津ちゃんがふみちゃんに投げかける台詞、日本語版オリジナルでは、

「あたしよりも好きになれそう?」

が、英語版では、

「Do you like her more than me?」(私よりその子が好きなの?)

…と、割と結構ニュアンスが変わっているように思えたので、Frankさんにもメールで、

「日本語版オリジナルの台詞は、(実際プロの翻訳家の案でそうなってることからも明らかなように)英語にするのは難しいけれど、あえて書くなら、"I hope you love her more than me."という、ふみを励ましているニュアンスの文(※注:「その子のことを、私よりももっと好きになれることを願っているよ」という意味のつもり)が近いように思う。英語版青い花(以下SBF)のオフィシャル翻訳の台詞は、そういう意味として読み取ることができるか?」

というメッセージを投げていました。


返ってきたメッセージは、以下のような感じでした。

良い質問だね。

「I hope you love her more than me.」という英文からは、英語のネイティブスピーカーは二種類の解釈を持つ可能性があると思う。

一つは、おっしゃる通りの、千津があきらとの関係でふみを励ましているという解釈だ。だが実は、これはあまりあり得ない解釈だと思う。


それよりもっとあり得るのは真逆のものだろう:ふみが千津を愛した以上にあきらを愛していることを、千津が暗に批判している、という解釈である。

英語のネイティブスピーカーなら、自分の頭の中でこの文章を次のように補完して解釈するわけだ:「I hope you love her more than me [because you didn't love me very much].」(=(あなたは私のことをそんなに愛していなかったから、)私よりは彼女のことを愛してあげられることを願うよ。)

このように解釈すると、SBFで使われている英文は、「I hope you love her more than me」という代替訳よりも、実は千津に対して優しい訳だと思うのだが、いかがだろうか?


SBFの「Do you love her more than me?」という文章は、千津の嫉妬心を表していると解釈することもできる。

私もそのように解釈したわけだが、しかし、千津の悲しみの表れと解釈することもできる:千津は、ふみとの関係に対して、自分(千津)が考える程には、ふみがあきらと持っている(あるいは将来的に持つ)ような親密な関係になれなかったことを悲しんでいるのである。この解釈をする英語ネイティブの人は、千津にもっと同情的になるのではないかと思う。

ということで、英語のネイティブスピーカーにとっては、SBFの公式訳の方がいいのではないかと思う。


…なんと、自分の英語表現が微妙だったため、一番のポイント(=SBFの英訳は、オリジナル日本語版の台詞とは若干ニュアンスが違う)があまり伝わっていなかった感じですね…!

もちろんこのメッセージはこのメッセージで非常に興味深く面白かったですが、やはり伝えたかったことは「英語版の台詞は、本来の千津ちゃんのニュアンスとちょっと違うように思う」ということなので、追って以下のようなメッセージを送りました。

「うーむ、それは、自分の英文が良くなかっただけで、やっぱり、SBFの訳は、日本語の台詞とは微妙に変わってしまっているように思う。

 より丁寧に書けば…

"I'm a lady in the past, and I sincerely wish you can love her more than me for your bright future."
(=私はもう過去の女だから、ふみちゃんの将来のために、その子のことが私よりも愛せることを心から願うよ。)

…的な文が、日本語本来の台詞に近いニュアンスなんだけど……

…これは、SBFの英文とは、結構意味が違うよね?それとも、SBFの英文でも、これに近い意味として読み取れる感じ?」


追って以下の返事をいただきました。

その文章は、読者に対し、千津に共感させるという点では少し優れているね。

しかし、それでもやはり、英語のネイティブスピーカーは、その発言を、千津がふみを批判していると解釈するかもしれないように思う。

これはきっと、日本語の原文の文字通りの意味を維持することが難しく、翻訳者がその裏の意味をどう伝えるかを判断しなければならない状況の一つであろう。

…という感じで、基本的には、この文脈で、千津ちゃんが純粋にふみちゃんを応援しているというニュアンスを出すのは、英語では(漫画の台詞という制約の中で)難しいのかもしれない、というのが結論なのかもしれませんね。

一応、「確かに、オリジナルの日本語台詞も、表面的にはそこまでの励ましのメッセージであるとも言い切れず、あくまで行間を読んだらそういう意図と捉えることもできる、程度のものかもしれないので、そこは難しかったのかもね」という返信を追加で送ることで、この一連のネタには幕を閉じておきました。


なお、Frankさんからは最初の返信で、

P.S. 実は、この本を書き始めた頃よりも、今の方が千津に対して良い意見を抱いている。最初に「虐待関係再訪」の章を書いたとき、私は千津を非常に強く批判し、極めて厳しい言葉を使ってしまった。その後、あまりにも辛辣なことを書きすぎたと思い、修正していたんだ。

本書をいずれ改訂する際は、ここでの千津の考えをより明確にするコメントを足そうと思う。

という内容も追伸で書いてくれていました。

Frankさんの千津ちゃんへの印象もやや軟化の兆しを見せてくれている、という所でしょうか。



そんな感じで、考察本・本編パートも、残すところ4セクションで、多分2-2ぐらいで、あと2回で終わりになる形かな、と思います。

その後、もう少しAfter Readingの章が続く感じですね。

ほとんど漫画本編の最終ページまで触れた今、残すセクションで何が語られるのか、まだ全く見てませんが楽しみに読み進めさせていただこうと思います。

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*1:あきらは幼いふみと自分自身の夢を見て一度だけ泣く(『青い花』(6) p. 139/SBF, 3:319)。しかし、それはプライベートな涙であり、起きている間に人前で流したものではない。

*2:イギリスから日本へ帰る飛行機の中で、あきらの体は再び自分自身を裏切り、激しく体調を崩す(『青い花』(8) p. 82/SBF, 4:262)。