青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その24:演者を探す二人の登場人物

今回はちょっと多忙につき投稿時間が少し遅れてしまいましたが、次のセクションに参りましょう。

こちらもサブタイトルの解説をいただいていました。


-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Two characters in search of an actor":ルイジ・ピランデルロの戯曲「Six characters in search of an author」(原題「Sei personaggi in cerca d'autore」)の英語題名に基づいている。

Wikipediaによると、邦題は「作者を探す六人の登場人物」のようだ。

「6」を「2」に、「作者」を「演者」に置き換えればよいであろう。

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今回は、タイトル的に、2人の演者にまつわる話、具体的には大野の春ちゃんのあの話なのかなと思って、前回までとはガラッと変わる新しい内容かと思ったため、前回の時点で区切って本セクションは別のブログ記事にしていたんですが、よく考えたらそれは英語版4巻という相当先の話でしたし、中身を読んでみたら、ほぼ完全にまだ続きの鹿鳴館のお話でした。


次のセクションは結構長く、内容の区切り的にも今回が鹿鳴館ラストのようなので、今回はやや短めですがこの章1つを読むだけにして、次回はその長めの1セクション、そしてその次が多分2セクションまとめて、英語版3巻は終わりかな、という感じですね。

 

鹿鳴館、そういえばドラマはどんな感じなのかな?…と調べてみたら、21世紀版ではなく1970年のやつがヒットしてきましたけど、白黒だけに逆に雰囲気も普通に良かったので、今回のトップ画像はNHKのそちらのものを使わせていただきましょう。

 

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040117_00000より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第24回:137ページから140ページまで)

演者を探す二人の登場人物

以前、杉本家の家長について、『青い花』作中では注目されていない、と記述していた。藤が谷での『鹿鳴館』上演に関する話について書く最後になる本節では、漫画に登場してこないことが注目に値する二人の人物、久雄と影山伯爵について考察していきたい。

 久雄は、少なくとも『青い花』の中で言及はされている。『鹿鳴館』の劇中で、顕子(あきらが演じた)が久雄に危険が迫っていることを言及している(その理由については漫画では省略されているが)。その後に久雄役の少女が舞台に呼ばれ、久雄が朝子の生き別れた息子であることもナレーションで説明される(『青い花』(5) pp. 92-5/SBF, 3:94-95)。しかし、我々読者には誰が久雄を演じるのか分からないままであり、久雄の台詞も知らされない。

 影山伯爵に至っては、存在の抹消は(ほとんど)完全である。久雄と同様、役者は特定されず、彼の台詞を聞くこともない。久雄と違って、彼は漫画の中で、名前も、物語の中での役割も、一切言及されない。

 恭己の父親の場合と同様、これは一体どういう意図があり得ると考えられるだろうか?この場合、最も単純な答えは、志村の描く物語において、彼らが周辺的な存在に過ぎない、というものだ。彼らは男であり、『青い花』は少女が女性になること、特に女性を愛する女性になることを描いているのである。久雄の場合は、顕子の恋人であることが明示されているという追加的な要素がある。あきらとふみの揺れ動く最中にある恋物語に、あきらの相手役として好意を寄せる別の少女を登場させることは、この物語に水を差してしまうことになってしまうといえよう*1

 しかし、恭己の父親と同様、久雄について見ることから始めて、この男性不在の件をさらに掘り下げることができる。久雄は、三島の他の作品や彼の人生、および日本の歴史という視点から、よく見られるおなじみのタイプといえる:熱血漢の青年というのは、その不満や暴力傾向が次から次へと蹂躙し、日本の(男性の)体制に利用され続けているのだ。

 久雄は、父親の仕打ちに憤慨し、まず父である清原を暗殺しようと企てる。しかし、新たに母と判明した朝子の介入のおかげで思いとどまるも、影山の言葉や策略に乗せられて再び恨みを募らせ、行動を起こしてしまった―だがそれは影山に対してのみの反抗であり、清原に対しての銃撃はわざと狙いを外し、その後、清原の応撃で自滅するのである。

 「有害な男らしさ」という言葉は使われ過ぎなきらいがあると思えるが、あえて当てはめるなら、この劇中の久雄の行動にこそまさに当てはまるといえよう。久雄には、自分が歩んできた道から離れ、顕子と一緒に日本を離れ、彼女と新しい人生を歩むチャンスがあった。しかし、久雄はその全てを投げ出して、自己破壊的な行為に走る―その行為は、彼の心の中では大きな意味を持つが、しかしより大局的に見れば、母や父や恋人を苦しめる以外の何物でもなく、一切何の変化ももたらさないものなのである。

 このことは、久雄が漫画の中で軽視されるもう一つの理由を示している:この戯曲をよく知る視聴者にとっては、久雄は、その省略によって、特にあきらやふみのような若い少女に向けて、そして取り分け『青い花』のような物語において、ネガティブなロールモデルとして強調されるものなのである。古いエス作品において、自殺(久雄の行動はこれに相当する)は、社会の厳しさから逃れられない苛立ちを抱えた者たちにとっての最後の手段ではあるのかもしれない。しかし、『青い花』の世界では、自殺はありえないのだ。

 むしろ、久雄の死を知り、人生に絶望した顕子に対して、朝子が発した言葉こそがそのメッセージと言えよう:「顕子さん、心の弱いことを仰言ってはだめですよ。どんなことをしてでも生きてゆこうとなさらなくてはだめですよ」*2。あるいは、言い換えればこういうことである:「久雄のようになってはいけない。」

 では、影山伯爵はどうだろう。先に仄めかしていたように、彼は『青い花』で描かれた『鹿鳴館』上演におけるヴォルデモート卿、すなわち「名前を言ってはいけないあの人」なのである。しかし、ヴォルデモートとは異なり、影山は「大悪党」としてはどうやら成功しているように思われる。

 久雄を雇うという当初の計画の歯車が狂った際、影山は朝子の行動を知り、目的を達成するために新たな計画を立てた。久雄の男らしさを上手く利用し、清原暗殺計画の再開を説得する―この計画は、仮に一見不成功に思えたとしても、清原の政治的勢力を完全に撤廃するものである(清原自身がそう述べている)。その後影山は、久雄ができなかった仕事を完遂させるために、清原を殺させた(と強く暗示されている)。分かりやすくいえば、彼の勝利、他の全員―朝子、顕子、久雄、そして清原―の敗北である。

 影山は、劇中で救いようのない極悪非道として描かれているわけではない。朝子と清原の関係に嫉妬し、二人の間に存在する特別なものを自分も持ちたいと願っているようだ―「私はね、あなたと清原の間に在るあの何とも言えない信頼が嫉ましかったんだ」―と言いながらも、二人の間の愛と信頼の可能性を嘲笑する:「ばかばかしいことだ。人間はあなたと清原とのように、無条件で誓い合ったり信じ合ったりしてはならんのだ。…(中略)…人間の世界には本来あってはならんことだ。」*3

 しかし、彼の気持ちはどうあれ、その行動は卑劣であり、第四幕のクライマックスでは朝子にこう罵られる:「もう愛情とか人間とか仰言いますな。そんな言葉は不潔です。あなたのお口から出るとけがらわしい。あなたは人間の感情からすっかり離れていらっしゃるときだけ、氷のように清潔なんです。そこへそのべたべたしたお手で、愛情だの人間らしい感情だのを持ち込んで下さいますな。本当にあなたらしくない。」*4

 偶然にも、『青い花』の中で影山が間接的にでも登場するのは、京子がこの演説の練習をするときだけである。(佐藤紘彰の翻訳の方が、朝子の言っていることがよく伝わると思うので、ここでは漫画内の訳ではなく、佐藤訳を使用した。※訳注:本訳でも、『青い花』作中の表現ではなく、『鹿鳴館』原本の表現を用いた(ただし、違いは句読点および漢字の採否のみである)。)その途中で、別の人物―恐らく影山役の匿名の少女で、背後からしか見えない―に促されるまで、京子は台詞を止めて、物思いにふける(『青い花』(5) pp. 102-3/SBF, 3:104-5)。

 京子は何を考えていたのだろうか?作中の少し前の場面で、彼女は、「父の大事なひとも 朝子のような女だったのだろうか」と自問自答していた(『青い花』(5) p. 97/SBF, 3:99) 。京子は、父と影山を比べているのだろうか?

 そして、彼女自身はどうなのだろうか?康の感情は、以前あった慕情のような類の気持ちは冷めてしまったようで、彼自身に対する京子の振る舞いへの苛立ち―京子が恭己に対して抱いている感情を知ってか知らずか、ひょっとすると嫉妬の念も―に切り替わってしまっていた。その一方で、京子が再び結婚を望むのは、自暴自棄と家庭環境から逃れたいという願望の臭いがするともいえる―ちょうど、康が京子にそう指摘していたように(『青い花』(5) pp. 88-9/SBF, 3:90-91)。

 もしかしたら、京子は、母や朝子に起こったことがいつか自分にも起こるかもしれないとふと立ち止まって考えたのだろうか:少なくともある程度ぐずついた愛情を抱えるこの状態で康と結婚しても、残酷で冷たい結末を迎えるかもしれないと自問して考えたのかもしれない。京子は母を救えなかった―「お母さんがこわれていくのを 私は止められない」(『青い花』(5) p. 99/SBF, 3:101)。もしそうなったとしたら、彼女は自分自身を救うことができるだろうか?

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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改めて、鹿鳴館は俺らの京子のための物語といえるのかもしれませんね。

ほぼ完璧にFrankさんが考察されているのでこれ以上語ることもありませんが、先ほど画像を貼っていたNHK鹿鳴館、特に明記はされていませんけれども、まず間違いなく右に座ってらっしゃるのが朝子さんというのは、明らかに分かりますね(そして向き合っているのが、顕子・季子母娘でしょう(季子さんは本文中に一切名前は出て来ませんでしたが))。

いやぁ~、僕も、気付けばすっかり鹿鳴館フリークです(まだ戯曲を全部読んですらいないのに、そんなわけないだろ(笑))。

配役表も掲載されていませんでしたが、恐らく、最初に名前の挙げられていた岩下志麻さんが朝子役でしょう。

ja.wikipedia.org
…って、写真も鹿鳴館の記載もないとか、Wikipediaはナメてるのか…!


まぁ、大女優さんですから、もちろん名前や、何となくどんなお顔雰囲気佇まいかは存じ上げていますけど、やはり僕の物心ついてからはもう既に大ベテランの域でしたし、先のNHKの画像とはあまり結びつきませんけれども、この岩下さん、凄まじく朝子さんにピッタリな完璧な役柄ですね!

これは気高い、完璧な朝子さんだ…!!

キャストに挙げられていたその他のよく知る名前、田村正和さんや岸田今日子さんは既に鬼籍に入られてしまいましたが、岩下さんは御年81歳ながらまだまだ元気でいらっしゃるようで、本当に素晴らしいことこの上ありません。

流石に女優さんとしての活動はほとんどないようですが(それでも、1-2年前にナレーションのお仕事もされているようですね、Wikipediaによると)、いつまでもご健勝で、末永く楽しく幸せな毎日を過ごされることを心から願ってやみません。


次回は、ついに同人誌タイトルのあの台詞が垣間見れる感じでしょうか…?

(あ、でもこっちは、最初に由来と勘違いしていた方なので、もしかしたら違うかな?)

物語も佳境に迫りつつあるので、こちらもじっくり楽しませていただきましょう。

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*1:藤が谷公演が三島由紀夫の演出に従ったものであれば、なおさらそうであろう:鹿鳴館で顕子に会った後、「久雄、顕子を抱きしめ、永い接吻をする」となっている。Mishima, Rokumeikan, 33.

*2:Mishima, Rokumeikan, 51.

*3:Mishima, Rokumeikan, 52.

*4:Mishima, Rokumeikan, 53. 太字強調は原文より。