青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その23:本年の主役・旧弊の女

前回鹿鳴館の流れから、今回最初は板垣退助というこれまた歴史上の偉人の話がありまして、Wikipediaなんかで調べていたらこれが存外面白かったもので、トップ画像は板垣さんにしようかと思ったんですけど、ヒゲのおっちゃんの画像がでーんと載るのもアレだな…と思い(笑)、そちらは後で触れるとして、最初の画像は同じく本文中で触れられていた、上田さんの画像としましょう。

その本文で出てくる上田さんの台詞は、ギリギリお試し読みの範囲から外れていたので(次のページがその場面だったのに…!)、その直前の、衣装を決め込んだ、上・田良子さんのカッチョいい男装の麗人シーンですね。


なお、今回も、2セクションともタイトルに関する補足をいただいていました。


-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"This Year's Star":漫画作中で、誰かが恭己を「last year's star」(昨年の主役)と言及している(該当ページを参照されたい)。「last」を「this」で置き換えたので、オリジナルの日本語版の台詞で同じことをしていただければよいであろう。

"'Such an old-fashioned woman'":鹿鳴館の英語翻訳からの一節である;鹿鳴館のオリジナル脚本の該当台詞を使っていただければよいであろう。クォーテーションマークで括ることをお忘れなく。

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一つ目の方は、当初なぜかこの補足を見落としており目を通しておらず、既に本文の訳を終えてから改めてこちらを目にしたんですけど、本文にも訳注を入れておいたように、日本語版の元々の台詞には「star」に対応する語はありませんでした。

(まさに先ほど書いていた、ギリギリお試し読みの範囲に入らなかった、上田さんの台詞の部分です。)

でもまぁ、普通に「主役」としておけば良さそうですね。

 

一方、二つ目の方ですが、前回、原典が手元になかったため英語版から自分で翻訳していた表現を使ってしまっていた部分(鹿鳴館の引用部)を直すためも含め、早速『鹿鳴館』の日本語版・英語版両方を入手してみました。


そのタイトルに使われているフレーズについてですが……

実はこの部分と思しきシーンは『青い花』作中でも登場してくるんですけど、英語版の『青い花』を見ると、その英語台詞とFrankさんがタイトルで使っている表現とが微妙~に違ったので、当初、これとは別の部分なのかなと思ったものの、『鹿鳴館』の英語版を見たら、どうやら『青い花』作中でも出てきたその場面が、まさに該当のシーンでOKだったみたいですね。
(そういえば以前の脚注で、英語版『青い花』で登場する英訳は英語版『鹿鳴館』のそれとは異なるという旨が記されてましたし(めっちゃややこしいですが(笑))、違うのも当然なのかもしれませんね。)


なお、日本語版の方は、井汲さんによる青い花作中の台詞は完全に鹿鳴館の原作通り(句読点は省略されていますが)だったので、これをそのまま引っ張らせていただきましょう。

英語版3巻17ページ、https://www.amazon.com/dp/1421593009/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第23回:133ページから136ページまで)

本年の主役

あきらは『青い花』で最も重要な人物の一人だが、彼女が『鹿鳴館』で演じる顕子は重要度が幾分低い―それなりの役ではあるけれど、決して主要な役ではない。しかし、上田良子の場合は逆だ:彼女が演じる清原永之輔は、『鹿鳴館』において間違いなく二番目か三番目に重要なキャラクター(朝子の次、影山伯爵に匹敵)だが、上田自身は『青い花』においてそれほど重要ではないキャラクターの一人である。

 まず、清原について改めて少し触れておこう。劇中で彼は、「自由党の残党」と表現される反政府派のリーダーとして登場する*1自由党は、1881年に、日本で最初の大衆による政治社会活動の一つである自由民権運動から派生して結成された、日本最初の政党の一つである。自由民権運動自由党は、民主的な選挙による議会の設置を提唱したが、有権者は旧士族と華族に限定された。1884年自由党は解散した(ゆえに「…の残党」と記されている)。

 清原の息子・久雄は、永之輔を「申し分のない理想家です。フランス革命の大立者のような人物です。生粋の自由主義者です。…(中略)…ルッソォの信者、日本のジャコバン党員、自由と平等のためには命も惜しまない男…」と語っている*2。三島は清原という人物を、現実の自由党の創設者の一人である板垣退助になぞらえたのかもしれない。板垣は仲間とともに、アメリカ独立宣言を模したマニフェストを宣した(「われら三千万国民は、みな等しく一定の侵すべからざる権利を与えられており…」)。清原と同じように板垣も暗殺未遂に遭い、彼の場合は未遂に終わったが、伝えられる所によると、その際「板垣死すとも自由は死せず!」と叫んだという。

 劇中の清原は、私生活ではあまり上手くいっていない:久雄を蔑ろにして嫡男を優先し、朝子との情事からは20年間も彼女と口を利いていない。朝子との再会は彼女の清原への思いを再燃させるが、久雄の怨念は消えず、まず父の殺害を企て、さらに父への復讐のために父の手によって死に行くという倒錯した行動に走る。

 顕子とあきらの場合と違って、上田と清原の間には、現実における共通点は全くない。上田のキャラ付けは(京子や春花のような脇役と比べてさえも)大したことがないものの、杉本恭己とは明示的にも暗示的にも比較されている。

 上田は、恭己と同じく長身でハンサムであり、これも恭己と同じく主演の男役を演じるのにうってつけの人物である。また、上田は、恭己(各務先生が「図書館の君」と呼んだ)と同じように、藤が谷の図書館で読書にふけり、そこで一人『鹿鳴館』の清原と朝子を演じている所を春花に発見されたのであった(『青い花』(4) p. 80/SBF、2:260)。上田は恭己と違って長髪だが、恭己も、姉の和佐の「ざっくりとした性格」を見習おうと髪を切る前は長かった(上田ほどではないが)のである((3) p. 112/2:112)。

 また、上田は清原役として、「私の中にはこの歳になっても 一人のどうにもならない子供が住んでいるのです」という台詞を口にしているが(『青い花』(5) p. 100/SBF、3:102)、これは恭己が以前、各務先生への手紙で使ったものであった((1) p. 164/1:164)。恐らく、以前演劇部が翌年の演劇祭のために『鹿鳴館』を検討しており、恭己は清原を演じる準備としてこの作品を読んでいたのであろう。いずれにせよ、観劇後の感想にあるように、各務先生はこの台詞を意識して捉えていたのである((5) p. 105/3:107)。

 私は、志村貴子が、藤が谷の「王子」である恭己がいなくなった穴を埋めるために、上田というキャラクターを導入したのではないかと邪推している。第一巻で恭己が川崎の相手役を務めたように、彼女は京子の相手役を務め、恭己のように後輩少女たちに憧れとときめきを与えるのだ。恭己が「去年の主役」((5) p. 16/SBF, 3:18)であったように、彼女は今年の主役なのである(※訳注:英語版の台詞は「last year's star」だが、日本語版では単に照れながら「やめてよ 去年の比じゃないわ」と述べるだけで、starという意の語への言及はない)。しかし、恭己と違って、上田は多少恥ずかしがり屋な点以外、大きな悩みを抱えているようには見えない。そのため、あきらや京子、ふみにとっては良い友達だが、キャラクターとしてはやや淡白で物足りないものになりがちといえよう。

 

「私のような旧弊な女が」

影山朝子は『鹿鳴館』の悲劇のヒロインである。朝子は、かつての恋人・清原永之輔と出会ったときは芸者で、その後、影山伯爵と結婚して貴族になった。このような結婚は明治時代には珍しくなく、社交界を主催したい有力政治家は、社交の場で男性と接することに慣れている芸者を探し、愛人や(伊藤博文首相のように)妻にするのである。

 影山が朝子と結婚した際にそのような意図があったのだとすれば、それは頓挫したことになる。朝子は内気な性質であることが判明し、どうやら影山家の外に出ることはなく、ましてや鹿鳴館に行くことも全くないようであるためだ。朝子曰く、「私のような旧弊な女が、どうしてあんな派手なところへ。」とのことである。*3

 しかし、朝子は息子である久雄の命を救うために鹿鳴館へと向かうことにする。久雄は、父であり朝子の元恋人でもある清原永之輔の暗殺を決意していたのだ。しかし、朝子の行動は無駄に終わる:久雄は父に撃たれて死んでしまうのであった。清原も、影山伯爵の側近・飛田によって銃殺されたことが、強く暗示されている。朝子自身は、その後の人生を影山伯爵との生活の中で送ることになり、その結婚生活からは、愛と優しさの幻影が全て剥ぎ取られ続け、現実の力と恨みだけが残されたといえる。

 清原、久雄、または顕子以上に、朝子は鹿鳴館の大いなる悲劇的人物である。顕子は若く、まだ幸せをつかむ可能性がある。久雄と清原は、あらゆる感情を超越している。しかし、朝子には希望のない人生だけが広がっている。

 『青い花』は悲劇ではないが、この漫画の中で悲劇的な人物を挙げるとすれば、それは井汲京子であろう。それゆえ、志村が朝子役に彼女を選んだのは妥当なことだ。見た目としては役に合っていない―京子の茶髪のショートヘアは、朝子の長い黒髪とはまったく違う―がしかし、それ以外は、寡黙で旧弊な雰囲気、不幸な過去、悩める現在、そして不確かな未来など、役柄にぴったりと合っている。以前の章で京子について書いていたように、「もしこれが伝統的なストーリーであれば、彼女の余生が短く不幸か、長く不幸かということだけがサスペンスになる」と思われる。

 マミ・ハラノは『鹿鳴館』に関する論文の中で、なぜ日本の観客は権力が勝ち、ヒロインが負ける芝居に群がり続けるのかと、修辞学的観点から問うている。それに対しハラノは、観客は朝子の中に、因習の束縛を破り、あえて愛を貫く人間の姿を見ているからだ、と答えている:道ならぬ相手である清原との恋愛、隠し子である久雄への母性愛、義理よりも人情を優先させるその姿勢だ*4

 人はよく「愛の力」を口にする。『鹿鳴館』では、少なくとも筋書きの結末上では、愛に力はない。だが、それでも、人々の心を動かす力はある。ハラノが書いているように、「彼女の人生のあらゆる矛盾を観察し、世の中のあらゆる不公平や不平等を見て、観客は朝子に共感する…」のである*5。同じことが『青い花』の京子にも言えるように思う。母親は病気がちで依存状態にあり、一番望んでいた恭己との関係は上手く行かず、康との関係もトラブル続きで、彼女の人生はめちゃくちゃだが、少なくともあきらとの友情、そして読者からの共感は存在しているのだ。

 時に、脇役キャラクターは集団から抜け出し、視聴者の心に特別な位置を占めることがある(例えば『少女革命ウテナ』の七実など)。京子は、私にとってそのようなキャラクターなのだ。彼女は『青い花』全体の主役ではないものの、このエピソードの主役であることは疑いようがない。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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最初に書きましたが、板垣のおっちゃんの人生、地味に読み応えあってめちゃんこ面白いですね!

ja.wikipedia.org
僕なんぞは、彼は暴漢に襲われて、文中でも触れられていましたが小学生でも知ってる有名なフレーズ、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を発してそのまんまお陀仏になったのかと思ってたんですけど、その場面では死んでなかったのかよ、生きとったんかワレ!(笑)


…と、まぁ何となく小学生の頃聞いたときは、「カッコつけて言ってるだけちゃいますのん?口でなら何とでも言えるわなぁ」と擦れた見方をしていたんですけど(嫌な小学生だな)、Wikipediaなんかをきちんと読んだら、当たり前ですがマジもんの立派な偉人で、実に素ん晴らしい限りでした。

ルイ・ヴィトンを日本で初めて買った人というのも「へぇ~」という話でしたが、まぁそんなことよりも、最初の方にあった話……

幼少の頃、真冬時、家の前に現れた乳飲み子を抱える物乞いの女性に対し、姉の着物をタンスから引っ張り出して与えてあげて、姉にブチ切れられるも、「我が家ではただの贅沢な着物に過ぎないけれど、かの女性にとっては、自分と乳飲み子二つの生命が救われるかもしれない、かけがえのないものです」と何ら悪びれずに悠然と答えたエピソードとか、いいですね…!


例の名言が有名ですけど、関連する話で、最期にも似たようなことをやっぱり主張されており、長いWikipedia記事の最後の方で引用されていましたが…

人は死んだら終わりだと言う、しかし私はそうは思わない。志ある人々が私の墓を前にして、世の矛盾に怒り、それを糾(ただ)さんと、世のために働いてくれるのなら、私の死は終わりではない。 — 板垣退助

…これは、僕もそう思いますね。

まぁ僕は別に自由民権運動とか世のための活動とかをしてるわけではありませんけど、自分がいなくなっても、正しい意思というのは綿々とつながっていってくれるものに思いますし、実際板垣さんの遺志みたいなものは多くの人に今でも語り継がれていますからね、死後の世界とか、名誉とか教科書に載るとかそういうセコいことを言いたいのではなく、ロマンチストとしては、人間はみんなそうやって命や意志をつなぎ続けているのだ、みたいな、まぁそれもちょっと感じたことと若干違う気もするものの、ともかく実際の各エピソードを見てみたら板垣さんは思ってた以上に素晴らしい人柄・行動をされていた方で、これまた大きく感銘を受けた次第です。


先ほどの着物の話もそうですけど、華族である既得権益みたいなものを生前自ら返上して、息子には継がせなかったことなんかも、私利私欲に走らないその姿勢が、個人的には何というかマジで信頼の置ける男だぜ…!と思える部分も大いにある感じでした。

やはりせっかくこの世に生まれた以上、こういう風な人になりたい、自分もかくありたい、と強く思えてやまないですね…!

(まぁ、息子からしたら、勝手に華族の立場を奪われるとか「…ざっけんなし(笑)」と思えたかもしれませんが(笑)、多分、彼の息子さんなら納得してくれることでしょう。)


…と、話が逸れましたが、そうそう、鹿鳴館、前回あらすじを見て、「え?この最後の銃声とは…??」と思ったんですけど、これはやはり清原氏の死なんでしょうね…。

(軽く検索したら自害説もありましたが、影山氏が側近を送った説もある感じですか。)

非常に面白いお話でした。鹿鳴館以外の作品も、ぜひ時間を見つけて読んでおきたい限りです。


青い花については、Frankさんの意見に心から同意ですね。

ぶっちゃけ中身を全く知らなかったので、ずーっと作中劇の該当部は意味不明のまま読み流してたんですけど、中身を知ると、これはまさにピッタリの配役といえましょう。

やはりこういう外部知識があると、より深く作品が楽しめるものですね。

良い学ぶ機会が得られて、大変ありがたい限りに存じます。

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*1:Mishima, Rokumeikan, 11.

*2:Mishima, Rokumeikan, 14.

*3:Mishima, Rokumeikan, 8.

*4:Harano, “Anatomy of Mishima’s Most Successful Play,” 2–3.

*5:Harano, “Anatomy of Mishima’s Most Successful Play,” 45.