青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その21:舞台設定

前回竹取物語伊豆の踊子に関する小咄に引き続き、今回も青い花本編とは離れて、まずは歴史の授業が開かれるようですね!

文明開化の音がする頃に、親元を離れて異国の地に旅立った偉大な少女達、さき・しげ・うめの御三名(どれも幼名)についてのお話です!!


僕なんぞは歴史に全く1ミリも興味がない勢なので、ほとんど知らない話ばかりで大変面白そうです。

貴重な3人の再会時の写真とともに、早速拝見させていただきましょう。

一生ものの戦友であり心の友である御三方とベーコンさん、https://ja.wikipedia.org/wiki/大山捨松より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第21回:121ページから125ページまで)

舞台設定

戯曲そのものについての話に行く前に、『鹿鳴館』にまつわる歴史的背景について述べておくのは理解の助けになるであろう。舞台は1886年、明治時代(1868~1912年)の真っ只中で、日本の歴史の中で最も激動的で社会的に重い意味をなす時代の一つである。『鹿鳴館』の時代設定は、藤が谷や松岡のような近代的な日本の女子学生にとって、ちょうど我々アメリカ人にとっての南北戦争時代と同じように馴染み深いものであろう。

 本節は、『青い花』と各ページに登場する少女たちを私なりに解説するためのものである。それゆえ、明治日本の歴史とともに、山川捨松、永井しげ、津田うめ*1という、ジャニス・ニムラ*2とそのひ孫である久野明子によって記録された、この普通ではない人生を送った普通の少女たち三名の視点から見た鹿鳴館について議論するのが適切であろうと考えた*3。この中で最年長である山川は1860年に生まれたが、これは、1853年にマシュー・ペリー提督と「黒船」が東京港に現れ、アメリカへの開港を要求してから、わずか数年後のことであった。

 海軍も国軍も持たなかった徳川幕府は、アメリカや他の国からもたらされる圧力への対処に苦労していた。1858年、幕府は、欧米列強を優遇し、日本の主権を侵害する一連の「不平等条約」に調印した。欧米の影響力に対する憤りと徳川家に対する長年の不満が、その後長期にわたる内乱を引き起こし、1867~68年、天皇の名の下に戦う勢力が幕府軍を圧倒する内戦で幕を閉じた。敗戦側である幕府方・会津藩の中級武士の娘、山川捨松は最後の戦いで榴散弾により軽傷を負い、義姉は命を落とした*4

 1867年、14歳の睦仁親王天皇となり、1868年、江戸が陥落して「明治」時代(「enlightened (賢明な) rule (統治)」を意味する日本語)に改元され、精力的で比較的若い多くの中堅藩士によって構成された新政府が発足した。彼らは、日本を一刻も早く近代国家にするために、西欧の知識、技術、および専門家による短期集中的な改革講座の取り入れに乗り出した。

 その中の一人、黒田清隆は、米国訪問の際、アメリカの女性たちに感銘を受けた。そこで彼は、日本の少女たちをアメリカに10年間滞在させ、アメリカのやり方を学び、その後帰ってきて新世代の日本の少女たちを教育してもらうという、素晴らしい計画を思いついた。初期の募集に失敗した後、政府は、敗戦側にあって比較的貧困にあえいでおり、それゆえ娘たちの養育の必要がなくなることにつながる出奔を厭わなかった、小~中級位の武家5軒を見つけ出すことに成功した*5

 1871年、五人の少女は、有名な岩倉使節団の一員として日本を出発した。岩倉使節団は、高級官僚、学者、男子学生などで構成され、外国を訪問して日本にとって有益な情報を持ち帰ることを任務としていた。最年長の二名の少女は、体調不良とホームシックですぐに帰国した。しかし、山川捨松(11歳)、永井しげ(10歳)、津田うめ(6歳)の三名は、アメリカの家庭に身を寄せた。彼女たちはすぐに英語を覚え、アメリカ人の親友をつくり、当時のアメリカの中上流階級の少女らしい社交性を身につけていった*6

 彼女たちの赴任中、日本では知的な言論活動が盛んになり、草の根の政治運動が起こり、新興政党が誕生し、日本にはどのような政治的、文化的思想や制度がふさわしいか、社会や政府の中で論争が行われていた。

 山川捨松はヴァッサー大学を卒業し(日本人女性で初めてアメリカの大学の学位を取得)、永井しげはヴァッサーで音楽の資格を取得し、1880年代初頭に帰国している。三人とも極めて大きなカルチャーショックを受け、津田うめは日本語を完全に忘れてしまうほどであった。また、保守的な風潮が強くなっており、外国人の思想は渡米当時ほどには受け入れられなくなっていたことにも気付かされた*7

 永井しげは、アメリ海軍兵学校に通っていた同級生と恋仲になった。その後、音楽教師になり、六人の子供を産み育てながらキャリアを重ねていった。一時は、彼女が日本で一番給与の高い女性であった。鹿鳴館での舞踊を描いた浮世絵に描かれているのが永井しげであると主張する学者もいる―もう一人のピアニストが合図を求めているようにも見える、右のピアニストだ*8。夫は後に男爵および海軍大将になり、しげは男爵夫人となる*9

 山川捨松は、自分の育った環境と受けた教育水準に見合った仕事を探すのに苦労し、最終的に陸軍大臣および元帥陸軍大将だった大山巌からの求婚を受けることとなった。二十歳年上の大山は、政治や外交活動を補佐する西洋式の妻を求めていたのである。やがて捨松は日本の貴族の支柱となり、皇后陛下自身に欧米式の文化やファッションについて助言するようにもなった*10

 1883年に鹿鳴館が建設されると、大山伯爵夫人(後に皇女)として鹿鳴館の行事を取り仕切り、「鹿鳴館の女」と呼ばれるようになった。(実際、彼女は『鹿鳴館』に脇役として登場する。)大山はまた、鹿鳴館で開催されたチャリティーバザーをはじめ、アメリカ式の慈善事業も日本に紹介した*11。この出来事は、大山伯爵夫人とその娘・久子を中央に配した浮世絵にも記念して描かれている*12

 捨松の慈善事業の主な受益者の一人は、日本での生活に慣れるのに一番苦労した、津田うめであった。うめはまず、その後すぐに日本の初代首相となる伊藤博文の子息たちの家庭教師としての職を得た。その後、伊藤が(大山伯爵夫人の援助で)設立した皇族や華族の令嬢を教育する「華族女学校」(※訳注:後の学習院女子中・高等科)で教鞭を執るようになった*13。(藤が谷女学院のような名門女子校は、後に日本の上流および中流階級の令嬢に、同等の教育を提供することになる。)

 津田うめは、華族女学校の保守性と、家族や周囲の結婚への期待に嫌気がさしていた。年齢が低すぎたゆえ、アメリカにいる間は大学に通うことができなかったので、アメリカへの留学を申請した結果、入学許可と資金援助を受けることができ、アメリカへ戻り課程を修了することとなった。開校したばかりのブリンマー大学(女子大学)に入学し、卒業とともに学士号を取得した。その後、日本に帰国し、アメリカ人の友人であるアリス・メイベル・ベーコンが執筆した、日本の女子教育に関する法律や政策を批判する本を匿名で手伝う時間も過ごしていた*14

 しばらく後、津田うめは、大山伯爵夫人の援助を受けて、自分の学校「女子英學塾」を開くという夢を実現させた。女子英學塾は、新たに義務教育となった女子中学校の教員養成がその使命であった。津田は間もなくブリンマー大学時代以来の親友であるアナ・コープ・ハーツホンを迎え入れ、彼女は仕事と生活の両面でパートナーとなった。(吉屋信子とそのパートナーである門馬千代がそうであったように、津田とハーツホンは鎌倉に共同で別荘を購入した。)*15

 1905年、女子英學塾には150人近い生徒が在籍していた。この学校は非常に高い評価を受けていたため、卒業生は教員資格試験の政府免除を受けられるほどであった*16。そして、彼女たちは順に、明治末期から大正にかけて、少女文化を作り上げた女学生たちを指導し、欧米の文学や思想に触れさせていった。吉屋信子による1923年のエス作品『黄薔薇』は、津田の学校を卒業したばかりの英語教師、葛城みさをが主人公である*17

 津田うめは晩年、体調を崩し、アナ・ハーツホンとともに鎌倉で暮らした。1929年に津田が亡くなった後、女子英學塾は彼女の名を冠して津田塾大学となり、(さらに最近)英語名がTsuda CollegeからTsuda Universityとなった。ハーツホン自身は、1940年、戦争が始まる寸前に日本を離れ、二度と戻ることはなかった。ハーツホンは『鹿鳴館』初演の翌年、1957年に亡くなったが、これはもう明治時代の幕開けからほぼ100年が経過しようとする頃であった*18

 鹿鳴館そのものも、その頃にはもうとっくになくなっていた。保守的な思想や反欧米主義の高まりとともに利用されることもなくなっていき、1890年に売却され、貴族向けのプライベートクラブとなっていた。それから日本は、当地の外交官を鹿鳴館でのダンスに招待していた欧米列強との戦争に突入したため、建物自体も使われなくなり、最終的には1941年に取り壊された。

 『青い花』の主人公である21世紀の三人の少女と『少女たちの明治維新』の19世紀の三人の少女との間には、興味がそそられる面白い類似点がある。まず、京子は山川捨松に似ている。初志貫徹を果たせず、社会的身分の高い年上の男性との結婚に縋ることとなった。山川の結婚がそうであったように、京子もそのような結婚で幸せをつかむことを願う限りである。

 ふみは、津田うめに似ている。津田がそうであったように、彼女もまた未婚のままであろう(日本に婚姻の平等が実現しない限り)。願わくば、津田のように、ふみもまた、あきらであれ他の女性であれ、生涯の伴侶となる女性を見つけてほしいものである。

 あきらについては、その運命はまだわからない―が、永井しげのように六人の子供を持つことはないだろう。しげのように、あきらにも愛する人が現れることを願わんばかりだ。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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いやぁ~、津田梅子さん以外は名前もほぼ初見レベルに存知上げないぐらいでしたが、面白いですねぇ~。

津田さんの英語版Wikipediaには出航時の、幼少期の写真もありましたが…

https://en.wikipedia.org/wiki/Tsuda_Umekoより

冷静に考えて、6歳で親元を離れて海外に放り出されるとか、ヤバすぎぃ!

…いや、逆に6歳なら、まだ何も分からないともいえる…??


いずれにせよ、本当に日本語はほぼ全く分からないレベルだったようで(少なくとも文字は書けない……6歳から10年もアメリカにいたら、そうなりますね)、全然そんなイメージもなかったので、学校の社会で聞きかじって知っていたのより遥かにずっと大変偉大な方々で、大いに感銘を受けました。


…と、ちょっともうちょい色々語りたかったものの、やや多忙につき時間がないので、あとは脚注で触れられていた画像をペタリと貼って今回はおしまいとさせていただきましょう(仮に触れる時間があっても、どうせ浅すぎる無意味な話だけだったと思いますが(笑))。


(まぁ具体的には触れませんが、御三方のWikipediaの読み応えは抜群だったので、オススメですね。)

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org


ではその引用画像について、まず、本文中で先に出てきた、鹿鳴館のピアニストが描かれた木版画(a woodblock printとあったので、木版画かと思いましたが、いわゆる錦絵・浮世絵ってやつですかね?本文中の訳も、木版画から浮世絵に変更しておきました)がこちらで…

https://en.wikipedia.org/wiki/Rokumeikanより

慈善会の様子がこちらですね。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/Rokumei-kan_ni_okeru_kifujin_jizenkai_no_zu.jpgより


いやぁ~、こういう丁寧な解説があると、歴史も存外面白いものだなと思えて、色々他にも調べてみたくなるものです(小学生並の感想)。

 

次回は青い花本編(鹿鳴館の劇について?)にまた入っていきそうですね。

続きも楽しみに読ませていただきましょう。

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*1:津田うめと永井しげは、大人になってからそれぞれ梅子、繁子と名乗るようになった(※訳注:津田の戸籍名は「梅」だが、初名は「うめ」とされているため、本稿では平仮名の「うめ」を用いる)。これは、明治時代後期、女性の名前に「子」がつくようになり、大正時代末期には「子」がほとんど全ての女性名に使われるようになったことを反映してのことである。例えば、以下の文献を参照。Yuri Komori, “Trends in Japanese First Names in the Twentieth Century A Comparative Study,” International Christian University Publications 3-A, Asian Cultural Studies 28 (2002), 75–76, https://icu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1637&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

*2:Janice P. Nimura, Daughters of the Samurai: A Journey from East toWest and Back (NewYork: W. W. Norton, 2015), Kindle.

*3:Akiko Kuno, Unexpected Destinations: The Poignant Story of Japan’s First Vassar Graduate, trans. Kirsten McIvor (Tokyo: Kodansha International, 1993).

*4:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 2.

*5:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 3.

*6:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 4, 6–7.

*7:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 9–10.

*8:Toyohara Chikanobu, Kiken butō no ryakuzu, 1888, https://en.wikipedia.org/wiki/Rokumeikan#/media/File:Chikamatsu_Kiken_buto_no_ryakuke.jpg

*9:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 10.

*10:Kuno, Unexpected Destinations, 118–22, 133–50. Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 10.

*11:Kuno, Unexpected Destinations, 162–64.

*12:Toyohara Chikanobu, Rokumei-kan ni okeru kifujin jizenkai no zu, 1884, https://en.wikipedia.org/wiki/File:Rokumei-kan_ni_okeru_kifujin_jizenkai_no_zu.jpg

*13:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 11.

*14:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 13.

*15:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 14–15.

*16:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 14.

*17:Sarah Frederick, translator’s introduction to Yellow Rose, by Nobuko Yoshiya. 葛城の母校は、「東京の英国大使館に近い五番町の…(中略)…某英学院」であることが記されている。女子英學塾は1903年にその場所に移転している。TheWomen’s Institute for English Studies moved to that location in 1903. Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 15.

*18:Nimura, Daughters of the Samurai, chap. 15.