続・青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その46:西遊記

前回、「リンクがFrankさんのウェブページにはまだないので…」と書いていたのですが、実は普通に英語版PDFのリンク先のファイルが、新しいバージョンに更新されていたようです。

てっきり「第二版はこちら」みたいな形で新しいリンクが表示されると思っていたので、同じリンクの中身が更新されていることを見落としていました。

というわけで、新章を含む考察本PDFのリンクURLとしましては、以前のバージョンと同じ(Frankさんのサイトに貼られているもの)、こちらですね。

https://frankhecker.com/assets/texts/that-type-of-girl.pdf


では早速追加記事本編へ参りましょう。

…とその前に、またタイトルに関する補足をメールのメッセージでいただいていました。

まずはそちらからチェックしておこうと思います。

なお、前回触れ忘れていた、序文に関するコメント補足も、せっかくなので今回触れておきましょう。

 

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Preface to the Japanese edition"

改訂増補版では序文が2つあることになる。

新しい序文は、Amazonで公開する際に日本語版と一緒に同梱されることになるため、「日本語版に向けての序文」と呼ぶことにしている。オリジナルの序文は、新しい序文と区別するために、"Preface to the English edition"(英語版に向けての序文)と改名した。

 

"Journey to the West"

これは、中国の有名な小説の題名に絡めた言葉遊びである。

Wikipediaによると、日本語タイトルは『西遊記』とのことだ。私の理解では、邦題にも「west」という意味の語が含まれているようなので、この言葉遊びは日本語でも通用するのかもしれないね。

しかし、どう訳すかはご判断にお任せしよう。

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今回はズバリ、西遊記と名付けられたタイトルの章ですね。

英語版第四巻の考察の章の間に挿入された形です。

早速見ていきましょう。

 

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That Type of Girl(そっち系のひと)~第二版~
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第46回:第二版169ページから172ページまで)

西遊記

以前、『青い花』のVIZメディア英訳版 (Sweet Blue Flowers) は、他の多くの翻訳漫画と比較して、特に日本語の敬称が完全に省かれている点で、比較的欧米化されたものであると指摘していた。その結果として、VIZの編集チームに対し、欧米の読者にアピールするために、この作品の日本的な側面が取り除かれてしまっている、と非難する人も、もしかしたらいるかもしれない―かつて『セーラームーン』の月野うさぎの名前を「セレナ」に、ボーイフレンドの衛を「ダリエン・シールズ」に変えたのと同じようなものであると。

しかし、Sweet Blue Flowersは、既に原作である『青い花』の時点で、特に日本の高校を舞台にした他の漫画やアニメと比較した場合、「日本らしさ」が相対的に欠けていたのである。例えば、しばしば恋人との出会いの舞台となる文化祭のシーンが存在していない(あるいは最小限の形でしかない)。藤が谷女学院には、演劇祭とは別に文化祭があることにはあるが、わずか1ページしか描かれていない(『青い花』(2) p. 5/SBF, 1:201)。松岡女子高等学校には文化祭が存在しない―やっさん、ポン、モギーの三人はずっと不満に思っていたことである。

また、花火大会のシーンも存在しない。これも、カップルが愛を語り合い、男子が女子の浴衣姿を褒めるという、漫画やアニメでよく見る設定である。

さらに興味深いことに、『青い花』には、仏教や神道に関連した日本の伝統的な宗教的慣習を描いたり、それをほのめかしたりするシーンさえほとんど存在しないのだ。正月や祭りで、お寺に行くこともない―改めてこれもまた、従来の高校生が登場する漫画やアニメの定番である。また、登場人物たちの家を舞台にした場面でも、故人(例えば、ふみの死んだ祖母)の写真やそれに関連した供物を飾り置く伝統的な床の間は一切描かれていない*1。ごく小さな例外を一つ除き、本作で宗教的なシンボル、建物、人物などが描かれるのは、キリスト教、つまり日本に輸入された西洋のものに関連するものだけなのである*2

宗教を超えても、『青い花』の登場人物たちは、いくつかの文脈において、興味が西洋に向いており、日本文化の少なくともある側面を否定する(ことが暗示される)様子が示されている。最も顕著なのは、恭己と川崎の二人が日本を離れ、イギリスに留学することである。イギリス滞在中、恭己と川崎はイギリス人の女主人と一緒に居心地の良い英国スタイルの家でのんびりと暮らし、川崎にはイギリス人のボーイフレンドもできている(『青い花』(8) pp. 66, 158/SBF, 4:246, 4:338)。この二人の後に順番に、修学旅行でイギリスに行くあきらと藤ヶ谷の仲間たち、そして同じくイギリスで学ぶことを選んだ上田が続く((8) pp. 59-63, 157-9/4:239-43, 4:337-39)。

上流的で高額な藤が谷女学院の生徒たちとは異なり、松岡女子の生徒たちには修学旅行で海外に行く余裕はない。しかし、近場であっても、彼女らはステレオタイプな「日本的」修学旅行を拒否している。特に、漫画やアニメで修学旅行先としてよく登場する、日本の伝統的な首都であり象徴的な中心である京都への旅は考慮さえされない。

その代わりに、大規模公園のような島である屋久島(九州南端の外れ)や、長崎近郊のテーマパークであるハウステンボスへの訪問が主な選択肢となるようだ(『青い花』(7) p. 99/SBF, 4:101)。ハウステンボスは、長崎がオランダの貿易拠点で、西洋の商品および(おそらくより重要な)西洋の思想が初めて日本に入ってきた時代を記念して作られた、オランダの模造建築が集まった場所である。

最終的に生徒たちは、屋久島よりもハウステンボスと長崎を選ぶことになる―京都は言及すらされていない(『青い花』(7) p. 106/SBF, 4:108)。しかし、『青い花』の後の章で松岡女子の修学旅行が描かれる際の焦点は、ハウステンボスという模造西洋建築の舞台ではなく、長崎にある実際の歴史的建造物である、グラバー園―日本の初期工業化の中心人物であるスコットランド商人の旧邸―であった((7) pp. 116, 129-33/ 4:118, 4:131-35 )。しかし、グラバー園でさえ、彼女らの西洋的なものへの欲求を満たすことはできない:ふみと友人たちは、未だに「日本の中の西方」よりも「本当の西洋」を好み、ヨーロッパ旅行を夢見て、「あたしも行きたいなー ロンドン」と叫んでいる((8) pp. 39-40, 64, 113-4/4:219-20, 4:244, 4:293-94)。

こういった西洋やその影響を受けた舞台に興味が向けられることは、『青い花』の文脈ではどのような意味を持つのだろうか?エリカ・フリードマンは、1990年代の百合のお約束パターンである「アメリカへ行くこと」について、次のように論じている:「『アメリカ』は、レズビアンにとって、そこへ行けば自由が得られると空想する場所であった。多くの古典的な百合漫画では、二人の女性が『アメリカへ行く』ことを『そして二人はいつまでも幸せに暮らしました』の暗号として使うことで結末を迎えていた」*3

イギリスは『青い花』で同様の機能を果たしている。イギリスは、日本ではできないことをするために、登場人物たちが(肉体的にも精神的にも)向かうことができる場所なのだ。恭己は、「女の子の王子様」という役割の牢獄を抜け出し、より良い、より幸せな人間になっていく(『青い花』(7) pp. 20-1, 128-9, (8) p. 62/SBF, 4:22-23, 4:130-31, 4:242)。あきらは、恭己に打ち明けることで、ふみとの関係について率直に話し合うことができた((8) pp. 72-4, 86-7/4:252-54, 4:266-67)*4。また、日向子が介在して差し伸べた手により、藤が谷の学生新聞部の部長は、内面化した同性愛嫌悪を克服し、日向子の性的指向について以前噂話を広めたことを悔いている((8) pp. 67-9, 130-2/4:247-49, 4:310-12)。

グラバー園の場面の途中で、志村は「自由亭」(英語版では「Freedom」と訳されている。直訳では「freedom pavilion」)という名の喫茶店の看板を示すコマを挿入している(『青い花』(7) p. 132/SBF, 4:134)。この名を冠した建物は、明治初期に日本人シェフによって設立された日本初の洋食レストランの一つである*5

その数年後、「自由」という言葉は、まず「自由民権運動」の名称に、その後「自由党」(英語では「Freedom Party」または「Liberal Party」)の名称に使われるようになった。いずれも、戯曲『鹿鳴館』の清原のモデルとなった、板垣退助(上田が演じた)によって生み出されたものである。

青い花』で描かれる西洋(そして暗に西洋で経験する自由)への傾注は、日本が西洋の思想や技術を利用して近代国家になろうとした明治時代のことを呼び起こさせるわけだ。時を同じくして、西洋式の女子教育、個人主義や純愛といった西洋的な理想が、「エス」文化や文学を生じさせた。

登場人物たちが西洋や西洋のものに魅了される中で、『青い花』は前途も見据えている:明治時代の女性の地位向上への期待(『鹿鳴館』の登場人物の語る、「新しい、すてきな時代」*6)が実現し、あきらやふみたちが「新時代を存分に生きて」(『青い花』(5) pp. 90/SBF, 3:92)いく日が来ることを。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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いやぁ~、相変わらず硬派な考察で、大変面白かったですね!

個人的に気になった点というか一つ見落としていたけれど興味深く気付いた点として、ハウステンボスって、「House Ten Boss」か何か(まぁそんな訳ないですけど(笑)、深く考えたことがなかった)と思っていたら、これはオランダ語で、「Huis Ten Bosch」のことだったんですね!

記事でスペルが書かれていて気付きましたが、SBF作中でもちゃんと記述されていました。

ちなみに英語にすると「House at the Woods/Forest」で、「森の家」ということなんですね。

大変タメになりました。

 

あと一つだけ、「新聞部部長が同性愛嫌悪を克服し…」とありましたが、僕はこれ、部長さんはてっきりヒナちゃん先生のことを好きなんだと思ってました。

好きだからこそ、どうせ自分のものにならないし、ゴシップで騒がせたくなる意地悪根性みたいなのが働いたとでもいいますか、少なくとも同性愛やヒナちゃん先生自身への嫌悪感は一切なかったんじゃないかなぁ、という気がします。

とはいえこれは確定的なことはいえないと思うので、読者による受け方・捉え方・考え方次第といえそうですね。

 

では次回も続き、ちょうど連続で新章が追加された形なので、まさに次のページからまた見ていくと致しましょう。

『こいいじ』3巻、https://www.amazon.co.jp/dp/B01AHO8VKOより

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*1:志村が明確に意図していたとは思えないが、「祖先崇拝」の痕跡がないことは、『青い花』の中心テーマとして私が睨んでいる、年齢によるヒエラルキーの否定と一致している。

*2:その例外とは、鎌倉の街並みの一部として描かれた神社の門(鳥居)である(『青い花』(8) p. 20/SBF, 4:200)。しかし、作中では神社そのものは描かれていない。

*3:Friedman, By Your Side, 70.

*4:あきらは基本的に飛行機が嫌いだが、作中では、帰路でだけ飛行機酔いする様子が描かれていることも注目に値する。それはあたかも、彼女の身体が西洋を離れ、日本に帰ることに反発しているかのようだ(『青い花』(7) pp. 79, (8) pp. 82-4/SBF, 4:81, 4:262-64)。

*5:「旧自由亭(喫茶室)」長崎南山手グラバーパートナーズ、2022年6月20日アクセス、http://www.glover-garden.jp/former-jiyutei-restaurant(※訳注:日本語版ウェブサイト:http://www.glover-garden.jp/pick-up/tea-room

*6:Mishima, Rokumeikan, 8.