青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その25:虐待関係再び

今回も、サブタイトルに関する補足から参りましょう。

 

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Abusive Relations Revisited":以前の「関係」の言葉遊びに加えて、「再訪」の言葉遊びが追加されているのが特徴である;本節では、ふみと千津の虐待関係の問題に「再び触れて」(二回目の議論)いる。

しかし、ふみと千津の間の面会回数も増えているため、「虐待していた親族(千津)が再びやってくる」という意味にもなる。

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千津ちゃんの再訪ですね。

お試し読みの範囲には千津ちゃんがいないので(ちゃんと確認してませんが多分)、記事内でも最後言及されていた登場人物紹介ページをペタッと貼らせていただきましょう。


一番左下が、件の千津ちゃんですね。

英語版3巻以降の登場人物紹介、https://www.amazon.com/dp/1421593009/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第25回:141ページから145ページまで)

虐待関係再訪

注意:本節には、児童性的虐待に関する議論が含まれる。


鹿鳴館』の藤が谷演劇祭公演が終わった所で、続いて『青い花』の物語は他の事柄に移っていく。演者へのお祝いや公演の感想の後、万城目ふみが、従姉の千津に赤ちゃんが生まれて遊びに来るという知らせに驚く所でこのエピソードは終わる(『青い花』(5) pp. 110-1/SBF, 3:112-13)。次のエピソード(「宴のあと」)は、幼く、傷つきやすかった頃のふみの姿絵で始まり、ふみと千津の子供時代の関係を(再度)語ることに費やされる。

 この関係が虐待的な性質を孕むことについては、既に述べた通りだ。この話では、ふみと千津に対する我々読者の理解に、何か加わるものがあるだろうか?この問いに対する私の考えは、以下の通りであり―『青い花』に対する私の考え全てと同様に、修正されていくことにオープンなものである。

 まず第一に、千津は英語版第三巻の登場人物紹介(『青い花』(5) p. 3/SBF, 3:5)にあるように、「花城」という姓が与えられた。初めの文字は、日本語で、本作のタイトルや吉屋信子エス作品『花物語』のタイトルにも使われている文字である。二つ目の文字は「城」(castle) という意味だが、これは色の「白」と同じ読み方である。

 「白」と「花」の組み合わせは、エス文化において情熱的で純粋な恋愛を象徴する白百合を想起させる。そして、この日本語名こそが、後に百合というジャンルの名前になったものだ。千津とふみの関係を考えると、これは志村による皮肉な駄洒落の一部といえるだろう。

 第二に、この話のサブタイトルについて簡単にコメントしよう。VIZ Media版の翻訳者注にはその由来や意味が書かれていないが、他の資料では、三島由紀夫の1960年の小説『宴のあと』(After the Banquet) を引用していると推測されている。この前の数話では三島由紀夫の別の作品に焦点が当てられていたので、もしそれが正しい話ならば、これは適切な表現である。この小説は、年老いた政治家と中年レストラン経営者の女性の間の、不幸な結末に終わる結婚を描いており、彼らは彼女のレストランで開かれた宴会で初めて出会う。ニューヨークタイムズの論評では、この小説の結末を、「愛は強いが、異質なものを一つにまとめるには弱すぎる」と要約している*1

 年齢差によって特徴付けられる、同じように不遇な結末を迎える関係に内在する「異質さ」というテーマは、確かにここでも当てはまっている。このエピソードの目的は、千津とふみの関係における微妙な差異を探ることにあるといえよう。またこの話には、(恐らく意図的に?)二人の年齢差がどの程度であったかを知る手がかりも含まれている。

 物語は、小学1年生のときに出会ったあきらから離れ、ふみが小学2年生になる場面から始まる。(より詳しい時系列は「十(?)年後」の節を参照。)つまり、ふみはこの時点で7歳ということになるだろう。ふみの新しいクラスでの自己紹介、寂しさとあきらへの思い、初日が終わった後からもう学校に戻りたがらない様子、そして(戻ってから)クラスの女の子二人との友情らしきものが芽生える場面が見て取れる(『青い花』(5) pp. 114-21/SBF, 3:116-23 )。そして、千津が登場する。

 この時点で、千津はティーンエイジャーになる寸前ぐらい(恐らく12歳か13歳?)で、母親によれば「クチばーっか達者になって生意気」で、ふみのように「おとなしく」はないようである。ふみは明らかに千津を尊敬しており、彼女の訪問を楽しみにしていて、泊まっていけないことを残念に思っている(『青い花』(5) pp. 122-4/SBF, 3:124-26)。

 その後、物語はページの間に時間を飛び越え、ふみが小学5年生(『青い花』(5) pp. 124-5/SBF, 3:126-27)、つまり少なくとも10歳になった場面となる。千津の年齢については言及されていないが、彼女の制服を高校生のものとするならば、少なくとも15歳、もしかしたら17歳くらいになっているのかもしれない。しかし、ふみに対する「(身長が)もうあたしより高くなってる」という発言や「やっぱ今時の子はすごいわ」というコメントは、千津自身がふみとの年齢差を実際の5歳かそれ以上より小さく見ていることを示唆しているように思える((5) pp. 125-6/3:127-28)。

 それから間もなく、千津の家族がふみの家の近くに引っ越してきて、二人はもっと頻繁に会うようになることが示唆されている(『青い花』(5) p. 126/SBF, 3:128)。そしてまたページ間で時間がスキップし、千津は今や大学に通っているので、少なくとも17~18歳、したがってふみは12~13歳か、それより少し若くなる((5) pp. 126-7/3:128-29)。その後の夕食やベッドでの会話は、千津が結婚のプレッシャーを感じていること、そしてふみが男の子に興味がないことを強調している((5) pp. 128-30/3:130-32)。

 それほど多くの言葉で綴られているわけではないが、この直後あたりから二人の性行為が始まっているように感じられる。それがどれくらいの頻度で、どれくらいの期間続いていたのかは不明である。しかし、ふみの家族が鎌倉に戻り、ふみが松岡に通い始め(15歳)、あきらと再会し、千津の結婚に驚き、ショックを受けるまでにはそれは終わっていた(『青い花』(1) pp. 20-5、33-40/SBF, 1:20-25, 1:33-40 )。ふみと千津の年齢差を5歳とすると、千津は結婚した時点で20歳、つまり公的に成人しており、少なくとも二年間の大学生活を終えていることになる。

 このエピソードでは最後にも時間がスキップして、物悲しげな思いにふける千津の姿とともに現在に戻る(『青い花』(5) pp. 130-1/SBF, 3:132-33)。そこへふみが割って入り、二杯の紅茶と一切れのケーキ―二人が以前会っていた頃を思い起こさせるもの((5) pp. 122、8/3:124, 3:130)―を運んでくる。千津はふみの近くで、鎌倉に引っ越してきちゃおうかな、などと息巻くも、思いとどまり、ふみに詫びる:「なんてね ごめん」と。ふみは彼女をじっと見ており、ここで描かれている全身像は、この話の扉絵に描かれていた、幼い頃の傷つきやすいふみと呼応するものがあるが、逆向き・反転した形になっている((5) pp. 131-2、113/3:133-34, 3:115)。

 先の場面からの類似性は続き、今度は千津が改めてふみに、誰か好きな人がいるかを尋ねる。ここではふみが「…いる」と答える。千津が好きな人の対象についてさらに質問すると、ふみは「女の子」と答える。千津はまたしても申し訳なさを見せるが(「て したのはあたしか」)、ふみはその考え方に抵抗を示す(「そんな言い方しないで」)(『青い花』(5) pp. 132-3/SBF, 3:134-35)。

 この会話を続ける内に、千津は後悔とわずかばかりの嫉妬の念に駆られる(「あたしよりも好きになれそう?」)。(※訳注:この台詞は、英語版では「Do you like her more than me?」(私より好きなの?)と嫉妬に近いニュアンスも感じられるが、上記の通り原文の日本語台詞には、嫉妬の意味合いは一切ないように思われる。)そして、自分の娘の姿がふみに似ていることに思いを馳せ、ふみの人生と自分の人生が歩んできた道とを比べて、ついに泣き崩れてしまう(「やっぱりあたしはそっちに行けないの」)(『青い花』(5) pp. 134-5/SBF, 3:136-37)。

 最後に来る台詞(口に出さない)は、ふみのものだ。まず心の中で「わたしは千津ちゃんのことが好きだった」と思い、その後、けじめをつける:「それは本当なの」と(『青い花』(5) p. 136/SBF, 3:138)。

 しかし、我々読者は、ここで何が真実なのかと考えざるを得ない。明らかに千津は、心の中で、自分ではコントロールできない状況の犠牲者と考え、暗に免罪している:結婚を迫られ、社会的偏見や血のつながり(「女で  いとこで」)によって、ふみと望んだ関係を築くことができなかった、という言い分だ(『青い花』(5) p. 135/SBF, 3:137)。

 私にとってよりハッキリとしないことは、志村貴子が、我々読者に対し、千津を被害者として考えて欲しいと思っているのかどうかという点である。確かに、千津は家族や社会からの期待に縛られていた。愛する人や人生の伴侶となり得る人が制限される形の期待だ。一方で、ふみは幼年期を過ぎたばかりで、千津はほとんど成人間近でもあったのだ。もし千津が女性に惹かれたのであれば、高校でも大学でも、もっと近い年齢の人を探すことができたはず―そしてそうすべきであったはずである。しかしそうではなく、自分を慕ってついてきてくれそうな傾向のある少女を、自分の目的のためにふみの中に見つけ、利用したのである。

 ふみの場合、客観的に見れば虐待の被害者だが、個人的には、本人はそう思っていないような気がする。それは、ふみは操られることでこの性的指向に入り込んだからとかそういうことではなく、漫画の中で描かれている彼女の全体的な性格と一致しているからである。

 以前書いていた言葉を借りて言い換えれば、ふみは「鋼鉄の芯」を持った人間、深い感情を持っており、最終的にはその感情に惑わされず、自分が何者で何を望んでいるのかを考えることができる人間なのだ。千津が「(ふみのことを)そうした」のかどうかは、ふみには関係ない。英語版第三巻の後半でふみが友人たちに語るように、彼女は「そっち系のひと」なのである。

 このエピソードで描かれている最後のイメージは、幼い頃の弱いふみという扉絵のイメージと再び呼応し、これもまた反転している:視線はもう下を向かず、まっすぐ前を向き、眼鏡とポニーテール(いつものもっと子供っぽいおさげ髪とは違う)が、彼女がしっかりと成熟した大人に達しつつあることを示している(『青い花』(5) p. 136/SBF、3:138)。

 最後に、以前、千津について書いていたことを繰り返しておこう:「『青い花』では、これまでの証拠に基づくと、対等な関係を重視し、年齢やその他のヒエラルキーに応じた不平等な関係を暗黙の内に批判しているように見て取れる。…(中略)…このような観点から、千津とふみの関係は、古典的な百合のパターンに内在し、かつ切り離せない潜在的な弊害の一例を読者に提供するものだといえよう。」

 千津は英語版第三巻の後半と第四巻の登場人物紹介でも登場するが、作中のイベントに登場するのはこれが最後である。ふみと千津の間に起こったことは、もう過去のことだ。ふみとあきらがどうなっていくのかが、今、最も大切な問題であろう。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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千津ちゃんの苗字、僕は(なぜか)「花代」というイメージがあったんですが、実際は「花城」だったんですね。

(なお、ふみちゃんの苗字も、この一連の記事を書くまで、ずっとなぜか「万丈目」だと思ってました(なので、「マキメさん」と呼ばれるシーンが後にあるんですけど、「マキメかぁ?まぁ、読み間違うようなやつだから、訓読みっぽいのでも適当読んでるのか」とか思ってましたが、自分が一番適当に読んでました(笑))。
 なので、「城」という字は、ふみちゃん家・千津ちゃん家で共通した字になってるんですね。)


漢字をチェックするために、本より先になぜかWikipediaをまず頼ったんですけど、まぁ当然漢字はWikipediaにも「城」で正しく表示されてたので自分の勘違いの原因はどこ由来か不明ではあったものの、ちょうど千津ちゃんの項目に、雑誌のインタビューに載った志村さんのコメントが掲載されており興味深かったですね。

作者は彼女の反響を語っており「本当に人でなしとして嫌われ続けたキャラクターだった」という

ふ~むなるほどぉ~、まぁFrankさんからもまさに犯罪者と名指しで呼ばれてるぐらいな、作中随一の悪役ともいえる千津ちゃんなわけですけど、これ言うとマジでカス野郎になってしまうかもしれないのであんまり大きい声では言えないんですが、僕は千津ちゃんもかなり好きなんですけどねぇ~。


まぁ普通に綺麗なお姉さんだからどうしても悪く思えないとかいう最低のゴミクズ意見でしかないんですけど(笑)、そうは言っても千津ちゃん自身も子供っちゃ子供だったわけで、子供が好奇心でそういうことしちゃうの、なくはないんちゃうかなぁ、とも思えると言いますか、もちろん千津ちゃんも被害者だ!…とか、自分より小さい子を弄んだ行為を正当化とかまでは決してしませんけど、許してやってほしい…とも中々言えないまでも、そない悪し様に言わんでも…というか、まぁセンシティブな話であるだけに、難しい所ですね…。


あぁ、ちょうどこないだの千津ちゃん回で、「結局こういうことでいいの?」と気になってた点があるとか書いていましたが、それがまさに今回のシーンで、上記考察記事でも触れられていた通り、千津ちゃんは「やっぱりあたしはそっちにいけないの」と涙するんですけど、まぁ「こういうことでいいの?」と思ったというか、初読時、読みの浅い僕なんぞは、

「ん?どういうこと?『そっちにいけない』も何も、そっちに誘ったのが千津ちゃん自身ちゃうん?『そっちから戻ってきてしまった』とかならまだしも、間違いなくもう踏み入れて先導してた道なわけだし、『いけない』ってこたぁなくない?嫌々やってたわけでもないんだし、まぁ結婚する以上「女性のみしか愛せないわけではなくてごめん…」みたいなことなんだろうけど、めちゃくちゃ率先して楽しんでた立場でその台詞はおかしかぁないか…?それともこの涙と台詞は、ふみちゃんのもの??」

…とか錯乱してたわけですが、まぁでも普通に読めば、「そっちの道を最後まで貫くことはできない、自分が誘ってしまったのにゴメン」って意味で、別に何もおかしな点はないので、単に自分の読みが適当すぎただけなんですけどね。


…というか、自分が先導しておきながら「そっちにはいけない」という無責任というか白々しくも感じられるこの台詞が、まさに多くの読者の反感を買ったポイントなのかもしれませんね。

まぁ僕は、最初一瞬何のこっちゃ迷いましたし、その立場でその表現はチト変な気がすっけど…とはやはり若干思えはするものの、(意味をちゃんと理解してもなお)この台詞自体(や千津ちゃんそのもの)に苛立ちや怒りは一切覚えないですかねぇ、やっぱり…。

そんな昔の過ちというか、一般的に見て良くないことをしてしまったような経験、誰しもなくはないでしょう、とでもいいますか……。


とはいえやはりそれは幼少期の被虐待経験とかがない立場からの、他人事の無責任な考え方ともいえるので、あんまり熱心に熱弁すべき点ではないかもしれません。

あぁ、でもただ、上記考察記事本編でも注で触れていましたが、英語版では千津ちゃんの質問が「私よりその子のことが好きなの?」というニュアンスになってしまっている件、これはやっぱり、オリジナル日本語版では、千津ちゃんがそんな嫉妬してるようなクソアマではないってことだけは強調しておきたい点ですね…!

実際の台詞である「あたしよりも好きになれそう?」は、嫉妬とかそういう類のものでは一切なく、純粋に「その新しい子が、私より好きになれる子であることを祈ってるよ」という、言うなれば「I hope you love her more than me.」的な、励ましのメッセージであることを、千津ちゃんの名誉のためにしっかり触れておきたい次第にございます。

(まぁ、それもそれで、「な~にを偉そうに言ってんだか」と思われる方が大勢いる感じの台詞に過ぎないことも、理解できなくはないんですけどね…。)


千津ちゃんもそういえばこれで登場は終わりなんですね。

ふみちゃん的には、本当にこれがけじめで、ついにここから未来へ向かって進んでいくという感じでしょうか。

次回で英語版3巻編(日本語版5-6巻)も終わりの予定です。

続きもじっくり触れさせていただきましょう。

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*1:Faubion Bowers, “Politics and Love in Japan,” New York Times, April 14, 1963, https://archive.nytimes.com/www.nytimes.com/books/98/10/25/specials/mishima-banquet.html