青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その14:Sは杉本のS他

今回で英語版第一巻パートのおしまいですね。

3セクションとも、タイトルが非常に凝っているようです。

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Yasuko Acts Out":「X acts out」という英熟語を使った言葉遊びで、「ヤスコが悪さをする」という意味である。しかし、ご存知のように「out」は、LGBTQの人が「out of the closet」(クローゼットの中から出る=公にする、性的アイデンティティを明かす)、つまり自分がLGBTQであることを他の人に話すことを指す単語でもある。ふみが訪ねてきたとき、恭己は家族にふみと付き合っていることを告げる。つまり、「Yasuko acts out」は、「Yasuko is behaving like she is out of the closet」(恭己がカミングアウトをするかのように振る舞っている)という意味でもある。


"S is for Sugimoto":このタイトルの形は、アメリカの子供たちにアルファベットを教えるために使われる教科書を思い起こさせる:「AはappleのA、BはboyのB、CはcatのC…」といった具合に。しかし、「S」は、吉屋が論じたようなエス関係をも指している。そして、本節自体が、杉本姉妹が学生時代にそのような関係であったことを語っている。


"Girl friends and girlfriends":ここでいう「女友達」(girl friends)とは、「女の子の友達」、つまりふみの友達であるポン、モギー、ヤッサンのことである。一方「ガールフレンド」(girlfriends)は、「恋愛関係にある女の子同士」、つまり、織江と日向子という意味である。この言葉遊びは日本語では真似できないと思うので、一番簡単な方法で訳していただければと思う。

---------------


特に1つ目は難しいですねぇ。

「オカンムリの恭己がカミングアウト」とでもしようかと思いましたけど、カンムリとカミングがもうちょい近ければいい感じになりそうでしたが、これはイマイチですね。

まぁ、ダブルミーニングにはなりそうにないですが、作中で使われている表現をそのまま使わせてもらって、両方の意味を掲げておくとしましょう。


残り2つは、まあまあそのまんまでいけそうですね。

ポンちゃんは、英語だと「ポン」呼びなのがちょっと悲しいですが(笑)、まぁここは翻訳でもポンとしておきましょう(あーちゃんもずっと「あきら」呼びですしね)。


早速第一巻パートの(といっても日本語版だと1-2巻にあたりますが)最終部を見ていこうと思います。

 

英語版1巻・目次、https://www.amazon.com/dp/1421592983/より

###############

That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第14回:79ページから84ページまで)

駄々こね恭己の告白

青い花』第一巻(だけ)を読んだ人、あるいはアニメ版しか視聴していない人には、杉本恭己が万城目ふみ以外の最も重要な登場人物だと思われてしまうかもしれない。奥平あきらが表紙を飾ってはいるが、第一巻の大半はあきらがふみのパートナーとして、親身になって話を聞き、涙を流す際に肩を貸すのが主な役割である。この巻では、ふみのカミングアウトがストーリー展開の軸となり、恭己がその重要な推進役となっている。

 それを踏まえた上で、恭己とは何者なのか、また何を象徴しているのか、考えてみる価値があるといえよう。恭己が何を象徴しているかは、比較的簡単に嗅ぎ分けることができる:彼女は、(少なくとも表面的には)エリカ・フリードマンが長年にわたって探求してきた「女の子の王子様」の元型の、『青い花』バージョンなのである*1

 王子様の属性には、やや男性的な表現および見た目(恭己の短髪と平均以上の身長)、スポーツやその他伝統的に女性的とは考えられていないことに秀でる(恭己は松岡女バスケットボール部の部長)、ややクールで近付きがたい態度(恭己と井汲京子の関係で顕著)、そして他の少女や女性を惹きつけてやまない魅力(『嵐が丘』劇の考察で先述の通り)などがある。

 フリードマンが指摘するように、女の子の王子様の典型的な例は、セーラームーンに登場する、颯爽と走るレーシングバイクのドライバーで、海王みちるセーラーネプチューン)の恋人でもある、セーラーウラヌスこと天王はるかである。この元型は、例えば『月刊少女野崎くん』の鹿島遊のようにパロディ化されたり*2、例えば『少女革命ウテナ』の天上ウテナのように批判的に問いかける形で現れるほど一般的なものである。

 私は、恭己というキャラクターは、後者の例であると考える。より具体的には、『青い花』という作品は、一般的な百合のお約束をいくつか例示した上で、それを反転させたり批判したりするといえる(例えば、ふみと千津に関する前回のコメント参照)。松岡や藤が谷の生徒たちが関心を寄せている限り、恭己も他の正当な女の子の王子様と全く同じように振る舞うのである。

 しかし、第一巻のイベントで、恭己も他のティーンの少女と同じように困惑していることが明らかになる。『嵐が丘』の上演後に各務先生が登場すると情緒不安定になり、ふみが杉本家を訪れると反抗的になり、虚勢を張るのだ(『青い花』(2) pp. 53-5、110-2/SBF, 1:249-51, 1:306-8)。彼女の性的指向さえも、姉たちに(やや残酷に)尋問される:「やっちゃんはレズビアンなの?」「本当に今は好きな人がそのお嬢さんなのね?…(中略)…じゃあ、恭己はバイセクシャルなんだわ」((2) pp. 111-2/1:307-8)。

 ただ同時に、恭己は、一歩下がって自分の状況を診断することで、自分自身および他者に対する自分の行動に対し、ある程度の責任を持つことができる。例えば、『星の王子さま』主演の初等部生の少女にかけていた言葉は、恭己が自分をヒースクリフになぞらえて話しているようにも見えるといえよう:「ちょっと困った男の人」で「周りの人がね 困っちゃう」のだが、「一概に悪い人とはいえないかな」と語るのだ(『青い花』(2) pp. 29-31/SBF, 1:225-27)。

 また、ふみに対しては「自分の気持ちの整理がつかないのを ふみのせいにした……」と認め、「今のままじゃつきあえない」と言う―しかし、このときでさえ、恭己が全ての背景について完全に語り明かしているわけではない(『青い花』(2) p. 124/SBF, 1:320) 。各務先生とのつながりを明かしたのは、ふみではなく、あきらであった((2) p. 151/1:347)。

 しかし、結局のところ、恭己は王子様としては失敗といえる。他の百合作品であったら、ひょっとしたら後輩の少女と目立つ関係にある先輩として終わったかもしれないが、本作において恭己は、ふみが袋小路に入り込んだ様子を象徴しているように思われる。そして、それはふみにとってだけではない:巻末では、ふみと京子が、恭己に「捨てられた」ことについてお互いに嘆き悲しんでいる(『青い花』(2) pp. 179-80/SBF, 1:375-76)。恭己が『青い花』の残りの部分でどのような役割を果たすことになるにせよ、それは王子様の役ではないだろう。


エスは杉本のS

それでは杉本恭己から、その家族へと話を移そう:姉の公理、和佐、姿子、そして母の千恵(第一巻では名前が出てこない)の四名だ。杉本家は、『青い花』の物語の中で、作品全体のテーマと関連しながら、特別な位置を占めていると私は考えている。

 まず、ふみは初めて恭己の大きな家を訪れたとき、「先輩って…お嬢さまだったんですね……」と驚嘆していた(『青い花』(2) p. 107/SBF, 1:303)。誤解のないように言うと、ふみとあきらの家も、貧乏とは程遠い。アパートではなく一戸建てに住み、車を持ち、娘を高級(そして恐らく高額と思われる)私立校に通わせる余裕もある。しかし、杉本家の場合は全く別格である。志村貴子が杉本家を、有力武家の当主で(後に)陸軍大将となった前田利為侯爵の東京邸をモデルにしたのは、偶然ではないだろう((2) p. 182/1:378)。

 その富は、恐らく恭己の父親の地位に由来するものであろう。我々読者は既に、ふみとあきらの父親とは出会っている。しかし、杉本家の家長は、少なくともこれまでの物語の中では、姿も見えず、名前もなく、言及もされないままである。杉本家における唯一の男性の存在は、ふみが最初に恭己の父親と勘違いした使用人の荻野さんのみである(『青い花』(2) p. 103/SBF, 1:299)。

 父親が不在の間、杉本家の女性たちは、噂話や麻雀で時間をつぶしている。画家の和佐は一時期藤が谷で教えていたが、それ以外は卒業後ほとんど何もしていないようである。もちろん、全員が藤が谷に通っており、皆この女学院のエス文化の一員ではあったようだ。サイドストーリー「若草物語」では、姿子が他の女子生徒の片思いの相手として登場するし(「みんな憧れているものね……」と織江はため息をつく)(『青い花』(2) p. 183/SBF, 1:379 )、(公理が言うように)「母の話はね 娘時代いかに自分も慕われていたかっていう自慢話にすり替わるだけだから 聞き流して」と、むしろまるで自分の功績を語り続ける、かつて高校で活躍したスポーツ選手であるかのようである((2) p. 109/1:305)。

 杉本姉妹とその母親は、エスと百合のお約束に対する、志村からのまた一つ別の形での批判的表現を象徴していると私は思う。杉本姉妹は、日本の家父長制文化からある種の自由を獲得し、女性同士の親密な関係について率直に語り(恭己に暴露された後、ふみにとっては恥ずかしさと困惑を覚えるものであった)、自分たち自身もそうした関係にふけることができるようになったのだ。

 しかし、それは一部の富める人々(職場やその他の場でLGBTQを差別される心配のない人々)にのみ開かれた自由であり、時間と場所が限定され、究極的には彼女たちの生活を経済的またはその他の面で支配する男たちの苦悩の上に成り立っているものでしかない。『マンスフィールド・パーク』*3でバートラム卿がアンティグア島から帰国する際のように、本社やゴルフ場、あるいは愛人の所から帰還してきた男性たちは、自分たちの権威と日本の男性優位の文化を再び主張することになるのである。

 言い換えると、このような自由は、そもそも仮に実現できたとしても、ふみが必要とし、また望んでいるような自由ではない。杉本家の女性たちは、ふみのアイデンティティと欲求を実現するための触媒にはなり得ても、モデルにはなり得ないのである。


女友達とガールフレンド

さて、『青い花』第一巻へのコメントが終わりに差し掛かったところで、この巻に登場する脇役たちについて見てみるとしよう。まずは、ふみの同級生で、松岡の友人でもある三人:本厚木洋子(「ポン」)、茂木美和(「モギー」)、安田美沙子(「やっさん」)である。この三人はあまりキャラが立っておらず、フルネームはおろか、ニックネームも把握しにくいほどだ。第一巻冒頭の紹介文では、「元気な娘たち。」としか書かれていない。また、第一巻の第二部(日本語版では第二巻)冒頭の登場人物リストには全く登場しない(『青い花』(1) p. 3、(2) pp. 2-3/SBF, 1:3, 1:198-99)。

 ポン、モギー、やっさんの主な役割は、松岡女子でふみに恭己以外の交流相手を与え、ふみを内向的な性格の外へと引き出し、藤が谷での『嵐が丘』の制作やその他の活動に参加させることにあるのではないかと思われる。この三人が、それなりに成長したキャラクターとして登場するのか、それとも単に物語を様々な方向へ導くためだけに存在するのかは、時間が経てば分かることであろう。

 最後に大事なことを一つ言い逃がしていたが、第一巻の巻末サイドストーリー「若草物語」に登場する織江と日向子(苗字は不明)、そして恭己の姉・姿子の高校生時代が描かれていることにも触れておかずにはおれない。織江は、どうやら先輩である姿子に片思いしており、その胸の内を日向子に打ち明けるが、日向子も自分に片思いしていることが分かる。「それから私が日向子さんに恋をするのは まもなくのことなんだもの」と織江は述懐し(『青い花』(2) pp. 183-5/SBF, 1:379-81 )、日向子と一緒に、エリカ・フリードマンが呼ぶ所の「ストーリーA」を、単ページで演じているのだ:「ある女の子がいて、その子は他の女の子のことが好きだ。もう一人の女の子はその子のことが好きだ。二人はお互いを好きになる。以上終わり。」*4

 織江と日向子の物語は、まだこの先も続くのであろうか?「ストーリーA」の先にあるストーリーは?それは、今後の巻でのお楽しみといえよう。とりあえず、二つほど注目すべきことがある:まず第一に、少女同士の交際関係として言及されているのは、ふみと恭己以外には、織江と日向子だけであるということ。第二に、恐らくより重要なこととして、ふみと恭己とは違って、織江と日向子は同じ階級で同じ年齢の少女同士の対等な関係であるように思われることだ。このことは、エスや百合作品が、女性を愛する女性に対して縛りつけることの多い、年齢によるヒエラルキーの束縛から脱却できる可能性があることを意味しているのである。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

###############

 

今回の主役は杉本家のおひいさま(この表現、僕は青い花の該当シーン以外で見たことがなく、初めて拝見したとき「末っ子のことなのかな…?もしや僕もおひいさま…?」とか思ったんですけど、普通に「お姫様」が音変化した言葉だったんですね。「やったぜ、やっちゃんとお揃いだ!」と思いきや、全然自分のことじゃなくて笑っちゃいました(笑))…こと、杉本のやっちゃんが大きく取り上げられている章ですね。

いやぁ~、それぞれの内面までは分からない作中のキャラには分からないでしょうけどね、心情描写を垣間見ることのできる神視点を持つ読者からいわせていただくと、マジで可愛い所もあるんですよね、このおヒィスクリフ様は!


唯一の欠点が、各務先生とかいう、やっちゃんの気持ちに応じないというこの世で最ももったいないを通り越して狂ってるといっても過言ではない、ゴミカスみたいな鬼畜な所業をやってのける人でなし、モジャメガネこと(そんなこと言われてないけど(笑))単なる冴えないおっさんみたいな何かしょうもない存在のことを好きになってしまうという、その巡り合わせの悪さ…!

…クッソ~、各務ならぬカゴミめぇ、スナックバス江の森田みたいな見た目しやがってからに…!!

dic.pixiv.net
(いや何でそんなマイナーキャラを挙げるんだよ(笑)。流石に各務先生はもうちょいマシでしょうが(笑))


…と、Frankさんが硬派な解説をしてくれているのに、相変わらず僕は浅~いキャラの良さ&魅力についてキャッキャしてしまいましたが、実は、流れ上やっちゃんを守るためにボロカス書いちゃったものの、各務先生のことも僕は普通に好きなんですけどね。

カッコいいかはともかく(笑)、女子校の先生は、そうでなくっちゃ!

やっちゃんの気持ちには応じなかったけれど、決して茶化したり晒したりしない所、それから「おまえ ちゃんと かわいいかっこも似合うのに」の台詞、あれはめちゃんこ良かったぜ…!(って、これは3巻なので、まだ先の話かもですが…)

作中で、多分二番目ぐらいにまともで、四番目ぐらいにカッコいい男性だとはいえるんじゃないでしょうか…?
(なお、作中に名前付きの男性は、片手でも足りるぐらいしか出てこない模様(笑))


杉本のやっちゃんは、まだこの時点ではこの先どうなるか分かりませんけれども、きっと、各務先生ロスを乗り越えてさらにずっと輝く最強のスーパーウーマンに成長していってくれることでしょう。

頑張れ杉本先輩!

Frankさんには「(百合漫画王子モデルとして)失敗」となじられようとも、君が間違いなく本作No. 1のヒーローだ!!(多分)

 

…と、今回の内容に関連して、一つ『青い花』日本語版第2巻で、些細な誤植を発見しました。

本文中で触れられていた旧前田侯爵邸ですが、これが作中あとがきでは「公爵邸」と記されていたものの、前田さんは侯爵であって公爵ではないので、こちらは誤記になりますね。

まぁこれは編集の方のチェックミスというか志村さんのミスではないわけですけど、そもそも日本の爵位、公爵と侯爵の発音が全く同じとか、紛らわしすぎぃ…!

絶対に、違う名前にすべきだと思いますが、英語ではDukeに対してMarquisと非常に分かりやすくてナイスです。

(というか、翻訳版ではちゃんとMarquis Maedaとなっていたので、しっかり調べて正しく翻訳されていたようで感心しました(まぁ、Duke Maedaという著名人の邸宅もないと思うというかそもそも固有名詞に近いものなので、当たり前っちゃ当たり前かもしれませんが…)。)

 

…あっ、ついでに、これは誤植かどうかは怪しいんですけど、手持ちの本では、同じく2巻・11話で、杉本シスターズがやっちゃんを呼ぶとき、「恭巳」と、下の字が「己」ではなく「巳」となっているように見受けられます。

まぁ姉がからかいを込めて「やすみ」って呼んでる可能性もなくはないですが、これはやっぱり誤植なんでしょうかね…??

(1巻の時点でちゃんと恭己という表記もされており、このエピソードのみな気がするので、やはりミスなのでしょうか…?

 なお、無事に英語版の方も入手しましたが、英語版をチェックしたらこのエピソードの姉の台詞もYasukoとなっていたので、Yasumi呼びってのもないですね(そもそもそう呼んでたとしても、漢字表記する意味もないですし)。)

最近の版では既に修正されているのかもしれませんが、一応ちょっと気になった(極めて些細な)点を挙げさせていただきました。

にほんブログ村 恋愛ブログ 婚活・結婚活動(本人)へ
にほんブログ村

*1:Erica Friedman, “Overthinking Things 05/03/2011: 40 Years of the Same Damn Story, Part 2,” The Hooded Utilitarian (blog), May 2, 2011, http://www.hoodedutilitarian.com/2011/05/21840

*2:Izumi Tsubaki, Monthly Girls’ Nozaki-kun, trans. Leighann Harvey, 12 vols. (NewYork: Yen Press, 2015–).

*3:Jane Austen, Mansfield Park (London: 1814; Project Gutenberg, 1994), chap. 19, https://gutenberg.org/ebooks/141

*4:Erica Friedman, “Overthinking Things 04/03/2011: 40 Years of the Same Damn Story, Pt. 1,” The Hooded Utilitarian (blog), April 3, 2011, https://www.hoodedutilitarian.com/2011/04/overthinking-things-04032011