青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その18:新キャラと鹿鳴館

今回は英語版2巻後半=日本語版4巻へと話が進み、まずは新キャラの登場からですね!

英語版2巻の裏表紙=日本語版4巻の表紙(↓)の、真ん中にいる元気いっぱい・猪突猛進娘が今回の主役だ!

特定のキャラには結構厳しい目線を向けるFrankさん、アメリカ人の視点から見たこのおてんば娘の評価やいかに…?!

英語版2巻・裏表紙(日本語版4巻表紙)、https://www.amazon.com/dp/1421592991/より

 

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第18回:105ページから108ページまで)

新しい年、新しい子

今回は『青い花』第二巻(オリジナル日本語版では第四巻)の後半へと入っていこう。ふみとあきらの高校1年生が終わり、2年生になる所だ。杉本恭己が舞台から退場し(前節で述べていた通り)、新たな補助的な脇役として、大野春花が登場する(『青い花』(4) p. 2/SBF, 2:182)。

 春花は、ふみとあきらという中心的な二人組の周りに興味深い脇役を据えるという、『青い花』の伝統を引き継いでいる。(しかし、これは普遍的なものではないわけだが:ふみの松岡の友人であるモギー、やっさん、ポンは相変わらず出番が少なく、キャラクターも薄いままだ。)

 春花は、物語の中でいくつかの非常に重要な役割を担っている。まず第一に、春花の個性的なキャラクターと声の大きさは、それだけで面白い。また、特に藤が谷の小・中学校に通っておらず、高校編入組であるという側面から、藤が谷で起きていることをフレッシュな目で眺める視点というものも提供してくれるのだ。

 この点およびその他の点(身長も含めて)において、春花はあきらに似ている。藤が谷での全てのことに対して目を丸くして感嘆の声を上げるその姿は、まるであきらの若い版であるかのようだ。実際に、学校へ続くトンネルに入り、「藤が谷のお嬢様」というあきらの言葉をほぼ一字一句同じように繰り返す春花の姿が、視覚的にも同じように捉えることができる(『青い花』(4) pp. 14-5/SBF, 2:194-95)。「去年の奥平さんみたいな人がいるみたいよ」と京子は驚嘆の声を上げる((4) p.15 /2:195)(※訳注:英語版では「SHE'S JUST LIKE YOU WERE!(あの子、以前のあなたみたいね! )」と感嘆の声を上げているものの、日本語版での京子はもう少し落ち着いているようである)。

 あきらがいるのに、なぜあきらのクローンが必要なのか、と思う人もいるかもしれない。最も単純な答えは、二年目のあきらは一年目のあきらとはだいぶ変わっているということにある。あきらは、ふみの自分への興味にどぎまぎしており、この状況をどうしたらいいのか分からず、誰に向かってアドバイスを尋ねたり親身になって話を聞いてもらえばいいのかも分からず、どこか不安でほとんど我を失っているように見えるのだ。「ちょっとよそよそしいかんじ……」とふみはあきらに言う(『青い花』(4) p. 69/SBF, 2:249)。

 春花は、あきらの魅力的な特徴を読者に思い起こさせる:元気で衝動的な性格、正義感の強さ、自分が正しいと思うことをしっかりと通す発言や行動を厭わずにできる所などがそれだ。藤が谷に通う動機さえも、同じように天然っぽいものなのである:あきらはほとんど気まぐれなミーハー的感じで、一方春花は恭己への憧れから―恭己は藤が谷に通っているわけではなかったことさえ知らずに―入学を決めたようだ(『青い花』(4) pp. 108-10/SBF, 2:288-90)。年齢も違えば通っている学校も違うのに、ふみが春花と友達になることに何も驚きはないだろう。あきらに惹かれる部分の多くは、春花にも惹かれる部分になっているのである。

 春花もまた、ある意味、あきらと同じような自己分析をしている。あきらは、ふみの告白をきっかけに、ふみに対する自分の気持ちと、レズビアンの関係に対する自分の気持ちとを問い直していたように、春花もまた、姉のラブレターを見つけたことで、身近な人を巻き込みながら、この問題について考えるようになる(『青い花』(4) p. 142/SBF 2:322)。

 また、春花は、大小様々な形で物語を駆動する推進力にもなっている。上田良子が図書館で本を読んでいるのを発見し、学園劇に出演するよう勧め、同じように出演しようかと考えているふみを(結局失敗したが)励ましたり助言を加えたりし、ふみがやめることを告げると、自分の強引さを詫びる(『青い花』(4) pp. 79-80、82、111、114、134-6/SBF, 2:259-60, 2:262, 2:291, 2:294, 2:314-16)。

 最後に、春花の姉についての春花とふみとの会話(「うちの姉 女の人が好きっぽいんですよ」)、その暴露についてのふみの春花に対する反応、そしてその反応の不適切さについてのふみの後悔は、第二巻のクライマックスシーンである、ふみがあきらに自分の本当の気持ちを告白する場面を生み出している(『青い花』(4) pp. 148-51、153-8/SBF, 2:328-31, 2:333-38 )。

 このように、春花は非常に面白く、最大級に魅力的なキャラクターである。英語版第二巻の終わりまでには、もう藤が谷で一目置かれる存在になっており(「あんたすごいね 上級生の友達続々と」とあきらは語りかける)、前節で述べた「ヒエラルキーの逆転」というテーマをさらに強めている(『青い花』(4) p. 138/SBF, 2:318)。第三巻での彼女のキャラクター性がどうなるかはまだ分からないが、彼女の存在が第二巻のハイライトの一つであることは間違いない。

 

鹿鳴館

今回は、新学期を迎えた藤が谷女学院演劇部にて、新しい演目を決めることになった場面からである。この年は、日本の文筆家・三島由紀夫の『鹿鳴館』(1956年)を上演することになった*1。この劇のあらすじや登場人物、そしてそれが『青い花』のテーマとどう結びついているかについては、まだおあずけとしよう;次巻で演劇部がこの劇を演じるまでのお楽しみだ。今は、著者と舞台設定に集中することにする。

 『鹿鳴館』を語るには、必然的にその著者から入らねばならない。日本人以外の読者は、戯曲そのものよりも「三島由紀夫」という名前を知っている可能性の方が遥かに高い。三島は、1970年、自衛隊駐屯地にて自衛官を集めて天皇の名の下に決起を持ちかけたが失敗し、45歳で切腹 (seppuku) したことで最も有名である。

 また、三島が同性愛者であったことも、日本人以外の読者には周知の事実であろう(ただし、妻であった平岡瑤子はこれを強く否定している)。このことは、『青い花』の背景にあるサブテキストになるが、『鹿鳴館』が選択されたことに関する最も重要な側面ではないように思う。(とりわけ『青い花』のテーマのひとつは、サブテキストの拒絶にあると思うからだ)。

 むしろ、『青い花』における『鹿鳴館』の意義を理解するには、作者ではなく、戯曲そのものに注目するのが一番だと思う。

 三島は海外では小説家としてよく知られているが、数十本の戯曲を残した大劇作家でもある。1950年代から60年代にかけての日本において三島は、同時代のテネシー・ウィリアムズアーサー・ミラーに匹敵するような地位を占めていた。この『鹿鳴館』は宝塚的なファンタジーとは一線を画す、本格的な文学作品である。藤が谷がこれを上演するのは、ちょうどアメリカの高校が『欲望という名の電車』や『セールスマンの死』を上演するようなものである。

 それらの作品と同様、『鹿鳴館』は、観客の想像力を掻き立てるものであった。この作品は1956年に初演された後、35都市で巡回公演が行われた。1962年、1963年にも上演され、2006年には初演から50周年を記念して再演されている*2志村貴子が『青い花』を執筆中の2008年1月には、テレビ放映もされた。このテレビドラマ化が、あきらがこの作品に出会ったフォーマットだと思われる。というのも、あきらは、上田良子に向けて「あ、戯曲なんだ もともと」と語っているからだ(『青い花』(4) p. 50/SBF, 2:230)。

 『鹿鳴館』は宝塚の作品とは異なり、異国の地ではなく、日本の歴史の中で最も重要な時代の頃の日本そのものを舞台とし、現代の日本が今なお抱える、キーとなる問題に触れている。鹿鳴館は、芝居になる前、1880年代に日本を訪れた外国外交官のための迎賓館兼集会所として建てられた建造物(日本語で「鹿が鳴く館」と書く)であった。鹿鳴館は、イギリス人建築家によるフランス式の設計で、西洋のスーツやガウンを着た日本の貴族や官僚が参加する舞踏会や宴会が催された。

 鹿鳴館は、このように、日本がイギリスやフランスなどの西欧列強と肩を並べる存在になったことを示すものとも、日本が西欧のやり方を真似することで、日本固有の伝統を損なってしまったものとも考えられる。

 このことは、藤が谷と松岡を対比させた章を思い起こさせる。近代性と伝統は、どのようにバランスを取るべきなのか?伝統に縛られるべきなのか?それに敬意を払いながらも、前進すべきなのか?積極的に否定するのか?それぞれのアプローチで、何が失われ、何が得られるのだろうか?藤が谷自体は、明治時代に―外国人宗教者によって設立され、西欧の様式に基づいて―近代化の象徴から、21世紀の日本における伝統の砦へと変遷してきた。

 このバランス関係は、『鹿鳴館』の舞台、劇内における登場人物の行動、そして登場人物を演じた少女たちの人生にも表れている。この点については、第三巻に触れる際、さらに詳しく述べることにしよう。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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春ちゃん絶賛、やったぜ!

いやぁ~、全てFrankさんの仰る通りで、初見時は確か「あれ、この子、あーちゃんと被っとらん…?」と一瞬思えたものの、冷静に考えたらあーちゃん的なキャラなんて何ぼおってもいいですからね!

僕なんかはすぐに「うおぉ~、春ちゃん、もっと出て来い~!」と思えましたし、「あーちゃんに惹かれる人は、元気っ娘・春花にも惹かれるのは当然だ」というのも、まさにFrankさんのお見立て通りでしょう。


っていうか正直、キラキラ輝くお目々が本当に真っ直ぐ魅力的で、瞳のハイライト、下手したらあーちゃんより気合い入って描かれとらん…?と思える場面もあるものの、まま、やはり僕はあーちゃんの方がキャラとしては好きかもしれませんけどね、ぶっちゃけ春ちゃんも可愛く元気な女性キャラとして、やぶさかではないといえましょう(笑)。

この先もガンガン絡んでくると思われるので、楽しみです。


一方、鹿鳴館は、僕はその他三島作品全て含め、タイトルしか知らない感じですねぇ。

文豪という評判、その他、上で書かれたFrankさんの説明からも、う~んめちゃくちゃ面白そう!…と思えてなりませんね(作中でも鹿鳴館を読んでるあーちゃんが「お―もしろい おもしろい!」と語ってますし!)。

また時間ができたら、三島作品も、小説のみならずもちろん鹿鳴館の演劇含め、ぜひ鑑賞させていただきたい限りです!

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*1:Yukio Mishima, “The Rokumeikan: A Tragedy in Four Acts,” in My Friend Hitler, and Other Plays of Yukio Mishima, trans. Hiroaki Sato (New York: Columbia University Press, 2002). 『青い花』で引用されている戯曲の台詞は、佐藤の訳ではない。漫画の翻訳者であるジョン・ウェリーが訳したものと思われる。

*2:Mami Harano, “Anatomy of Mishima’s Most Successful Play Rokumeikan” (master’s thesis, Portland State University, 2010), https://pdxscholar.library.pdx.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1386&context=open_access_etds, 55.