青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その12:関係の悪用・泣き虫ふみちゃん・質問あーちゃん

今回は3セクションほど進めてみましょう。

どれも、サブタイトルに関する補足をいただいていました。

 

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Abusive Relations":ここで「relations(関係)」という言葉は、「二人の間の関係」という意味と、「親戚関係や大家族の一員」という両方の意味で用いている。つまり、このタイトルは、千津とふみの関係が虐待的な性質を持ったものであり、かつ、千津自身が親族であることを悪用しているという両面を意味している。


"Cry Baby":一単語("crybaby")ではなく、2つの単語になっているのは、マルクス主義の評論家テオドール・アドルノと彼の著書『ミニマ・モラリア』が絡んだ非常に分かりにくいジョークである。ミニマ・モラリアは非常に短い小論(私の「ノート」のようなもの)で、その中の一つに、本自体はドイツ語なのに、英語で「Tough Baby」というタイトルが付いている。

日本語に訳さず、同じタイトルの「Cry Baby」のままにしておけば、ジョークを保持することができる。しかし、日本では誰もそのジョークを理解しないと思う(むしろ、世界の誰も理解できないと思う)。だから、タイトルは、あきらが「Fumi is such a crybaby」と言うときに使う日本語に変えればよいだろう。


"Akira Questions":言葉遊び:このタイトルでは、「質問」を名詞として(=「あきらに関する質問」、特に彼女がアセクシャル(=他者に対して性的欲求を抱かないセクシャリティ)かアロマンチック(=他者に恋愛感情を抱かないセクシャリティ)か、といった)と同時に、動詞として(「あきらが自分自身に質問している」、例えばふみに対する自分の気持ちはどうなのか、といった)も使っている。

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どれも日本語にするのが意外と難しいですねぇ。

Cry Babyは、幸いにして中学レベルの英単語なのでそのまま英語表記でも良さそうですが、まぁFrankさんの助言どおり、あーちゃんの台詞を流用させていただくといたしましょう。

Akira Questionsは、一見このダブルミーニングを再現するのは日本語では難しいな…と思ったものの、普通に「あきらの質問」とすれば、日本語でもそれだけで「あきらが発する質物」と「あきらに関する質問」(まぁ後者は、普通は「あきら『への』質問」とかすると思いますが…)の両方を辛うじて意味できる気がするので、普通にそんな感じでいきましょう。

1巻お試し読みにもありました、ふみちゃんの美しき涙シーン、https://www.amazon.com/dp/1421592983/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第12回:67ページから72ページまで)

虐待関係

注意:本節には、児童性的虐待に関する議論が含まれる。

あきらの兄の悪行を知ったところで、今度はふみの従姉である千津が読者に第二弾を与える番だ。まず、これまでの話で提示された事実は以下の通り:ふみは現在15歳(この点は以前の議論を参照)である。千津は結婚を控えているので、高校を卒業し、少なくとも18歳、大学に進学していればそれ以上の年齢であることが予想される。千津は、(外見から判断して)ふみが15歳より若い時期に、ふみと性的関係を持ちたがっていた(そしてどうやら実際にやったようだ)(『青い花』(1) p. 65/SBF, 1:65)。

 ふみは千津に対して純粋な気持ちを抱き、彼女の誘いに応じたようである。しかし、ふみの気持ちはともかく、私の考えでは、これは明らかに虐待のケースである:千津は、自分の目的のためにふみを利用し、結婚するときにはふみを捨てたのだ。あきらの兄と同様にこのエピソードについても、「女子学生百合」物語の中で一体何が行われているのか?…と問いかけたくなるといえよう。

 不幸なことに、この千津との小話は、ふみがレズビアンになったのは子供の頃に「リクルートされた」からだということを暗示しているように見えるかもしれない。この考え方は、レズビアンを子供を食い物にする者として中傷し、ふみのカミングアウトへの道のりの感情的なインパクトを弱めてしまう。これでは、ふみを、本来の彼女自身のアイデンティティを表現する主体性を持った人間としてではなく、ある役割に「仕立て上げ」て、過去のトラウマを乗り越えられない被害者だという考えを投げかけるものとなってしまっている。

 この文化圏の外から来た者として、私は志村貴子の考えを推測することしかできないが、それが彼女の意図であったかは疑問である。以下は、参考までに、私の推測である:

 『青い花』は、『マンガ・エロティクス・エフ』に連載されていたということを改めて思い出してほしい。志村(あるいは編集者)は、このような小ネタを盛り込むことで、同誌のターゲットである大人の読者によりアピールできると考えたのかもしれない。

 また、『マンガ・エロティクス・エフ』やそれ以外に掲載された他の志村作品にも、この種の一般的に疑問視される内容が含まれている。例えば、『放浪息子』の読者は、大人のキャラクターがトランスジェンダーの若者の股間を掴んで性器を調査するというシーンを思い浮かべるだろう*1

 千津の小ネタは、物語に何か寄与している点はあるだろうか?一つには、その関係と結末を、ふみが杉本恭己とリバウンド交際関係(※訳注:恋愛関係が破局した後、その関係を未練なく過去のものとするために積極的に新しい交際を模索する期間の学術用語)を持つきっかけとして利用する、という目的があったのではないかと推測する。ふみの以前の関係が年齢の近い同級生であったとすると、あきらがふみの初恋の相手であり、さらにそれが(恐らく)真実の愛であるという物語を、より複雑にしてしまうであろう。また、千津との関係は、ふみの方があきらより性経験が豊富であることも意味する―今後の二人の関係展開に影響を与える要素だ。

 最後に、志村が意図したかどうかは別として(していたかもしれないのではないかと推測するが)、千津とふみの関係は、年上の少女や女性が、年下の少女と関係を持つという、エスや百合物語の暗い面を映す鏡として機能している(例えば、吉屋信子の『黄薔薇』では、22歳の教師と17歳の生徒を取り上げている)*2

 こういった伝統的なパターンは、一方のパートナーが他方のパートナーより年上で、(少なくとも社会的側面では)優位に立つという、年齢に基づく社会的ヒエラルキーを反映している。ペアの先輩側が卒業したり結婚したりすると、女性同士の親密な関係から離れ、男性支配および男性中心の世界で生きていくことになる。それに伴い、後輩側は、また新たな少女の先輩となり、終わりのないサイクルを繰り返すのだ。(例えば、『マリア様がみてる』で紹介していたスール制度の仕組みを参照)。

 一方『青い花』では、これまでの証拠に基づくと、対等な関係を重視し、年齢やその他のヒエラルキーに応じた不平等な関係を暗黙の内に批判しているように見て取れる。ふみとあきらの関係は、明らかにふみの先輩である恭己との関係よりも物語上重要なものとなっており、京子の恭己への片思いや恭己の各務先生への片思いが、不平等な関係に対する否定的な見方を更に強固なものとしている。このような観点から、千津とふみの関係は、古典的な百合のパターンに内在し、かつ切り離せない潜在的な弊害の一例を読者に提供するものだといえよう。

ふみちゃんは すぐ泣くんだから…

万城目ふみは泣き虫である。『青い花』の序章で彼女について描かれるのは、ほとんどそればかりだ:電車で男にセクハラされて泣いている(『青い花』(1) pp. 16–7/SBF, 1:16–17)。回想シーンでは、小学校でおもらしをしたときに泣き((1) p. 30/1:30)、あきらと別れるときにも泣く((1) p. 32/1:32)。(複数の場面で)従姉の千津が結婚して自分を捨てたと知って泣く((1) p. 43、p. 50、pp. 62–3、p. 66/1:43, 1:50, 1:62–63, 1:66)。恭己に初めてキスされる前((1) p. 115/1:115)、あきらに恭己と付き合っていることを話すとき((1) pp. 139-40/1:139–40)、杉本家で恭己に別れを告げられるとき((2) p. 118/1:314)、そしてその後井汲京子と慰め合っているとき((2) p. 180/1:376)、彼女は泣いているのだ。

 もし、ふみのキャラクターがこれだけだったら、『青い花』はかなり気の滅入る、面白くないマンガになってしまっていただろう。しかし、ふみはとても泣き虫ではあるけれど、こういった例すべてを合わせた以上の存在なのだ。それは決して「情緒不安定」なわけではない:物事を深く感じ、それを我慢することなく表現しているといえるのである。そして、読者の目にも徐々に見えつつあることだが、ふみの性格には鋼の芯があるのだ:涙にふけることはなく、(通常はあきらの助けを借りながら)動揺していることに対処していく。千津に捨てられた後もしがみつかず、恭己に終わりを告げられた場面では、恭己の様子を見て一刻も早く杉本家を出ようと動き出す。

 だから、ふみは、私にとって『青い花』で一番好きなキャラクターなのである:ふみは物事を抱え込んだり、世界に対して偽りの姿を見せたりしない。受動的攻撃性を示したり、人に暴力を振るったりしない。そうではなく、ふみは、泣いて、何をすべきかを決断するために少し時間をおいてから、自分自身の人生を歩み始めるのだ。

あきらの質問

LGBTQIA、および、より発音のしやすいアナグラムであるQUILTBAGという頭字語は、「ゲイとレズビアン」というフレーズや、より一般的に使われている頭字語LGBTよりも包括的であることを意図して考案されたものだ。こういった文字の積み重ねを揶揄することは簡単だが、これらの新語の背景には重要な意味がある:人々のアイデンティティ性的指向および感情の豊かな多様性は、制限されたラベルでは適切に描写できないのである。奥平あきらは、その典型的な例だろう。

 万城目ふみと同じように、あきらの外見の印象は、内面の表現と必ずしも一致しない。一見すると、典型的な「元気娘」のステレオタイプに当てはまる:活発でエネルギッシュで、自信に満ちていて熱狂的というものだ。あきらの冷静さと実行力は、ふみにとって、涙を拭い、くじけずに人生を歩んでいくために必要不可欠な存在だ。

 しかし同時にその一方、あきらは自分自身と自分の気持ち(例えばふみに対する気持ちなど)に関しては、それほど自信と確信を持ち合わせてはいない。ふみが杉本恭己と付き合っていることを告げた際、あきらは動揺する:「別に女の人を好きでも いんじゃないでしょうか? ……あたしの頭がシンプルすぎるのでしょうか?」と自問するのである(『青い花』(1) p. 144/SBF, 1:144)。

 物語のこの時点では、あきらが自分の性癖に疑問を抱いている(LGBTQIA の「Q」の、可能な意味の一つ(※訳注:QはQueerの他に、Questioningとも呼ばれる))というより―恭己の「女殺し」的なオーラを肌で感じてはいたものの(『青い花』(2) pp. 37–8/SBF, 1:233–34)―異性愛という従来の語り口に対して疑問を抱いているのであろう。あきらは、藤が谷のような場所で語られる少女同士の友情については親しみがあったが―井汲京子が中学生から手紙を受け取った際、「ホントにそういうのあるんだ すごい~~」と驚いてはいたけれど((1) p. 78/1:78)―今は、自分の大切な人の中で、その感情のリアルさに遭遇しているのである。

 あきら自身が恋愛経験不足であることも、事態をより難解なものにしている。片思いの相手もいなければ、デートの類もしたことがないようだ。京子と澤乃井康が企画した「合コン」に行くことを楽しみにしているが、兄が付き添ったためか、はたまた他の理由か、そこでも何も起こらなかったのである(『青い花』(1) pp. 97–8、pp. 102–3/SBF, 1:97–98, 1:102–3)。あきらの兄や京子から、康が自分に興味を持っていることを指摘されるも、「そういうの あたしはまだいいやって……」という反応が引き出されたのみであった((1) pp. 129-30/1:129–30)。

 あきらにその覚悟はあるのだろうか?この物語の中で、どちらか一方とはっきり言うのはまだ早すぎる。今のところ、あきらがアセクシャルかアロマンチック(LGBTQIAの「A」の二つのあり得る意味。※訳注:他者に対して性的欲求(恋愛感情)を抱かないセクシャリティ)であることを示唆する証拠は仄めかされている。残念ながら、あきらの兄のシスコンネタが、あきらのありのままの姿ではなく、何か暗い原因があることを暗示していて、この考えを曇らせてしまっているが…。一方、あきらを単なる友人以上の存在として見始めている(あるいは「初恋」の記憶からすると、再認識し始めている)ように思われるふみはどうなのだろうか。これらの疑問に対する答えは、今後の巻を見ていく必要があろう。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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大変興味深い考察が続きますね。

千津ちゃんの件については、これはやっぱり同性とはいえ、現在の価値基準から考えると(まぁ青い花からそれほど時間は経っていませんが)、虐待と断じられても仕方ない点といえましょう。

そういえば千津ちゃんについて、「ん?結局こういうことなん?」とずっと気になってた点があったのですが、またいずれそこに触れる話が出てきたら改めて触れさせていただくといたしましょう。


一方、ついにここに来て、Frankさんの推しキャラが発覚!

おいおい、ふみちゃんが一番好きって、かぁーっ、いい趣味してらっしゃる!(笑)

まぁ、「ふーん、キャラを差別して優劣つけちゃうんだ。僕は青い花の登場キャラ、全員一番好きだけどね(笑)」という気もしなくはないものの……

…ってまぁそれはやっぱりネタというか、何事もなあなあにする優柔不断さの表れでしかなく、どう考えても僕にも好きなキャラの優劣はありますけどね(笑)。


ちなみに、あえて主人公2人を比べるなら……僕はまぁ何というか正直あーちゃん派なんですけど、むしろアメリカ人であるFrankさんがふみちゃんを好きというのも意外でした。

アメリカ人はやはり強い人が好きという偏見にも近いイメージがありますが、あぁ、でもFrankさんはふみちゃんの中に真の強さを見出しているという話でしたもんね。


個人的にはあーちゃんの方が強い子の印象があるとも思えちゃいますけど、それはふみちゃんの涙に騙されて浅い表面しか見ていないだけの意見で、Frankさんの社会的な考察を目にしたら「確かに、ふみちゃんも強い子だ」と思えてきたといえましょう。


ただ、日本人にはやっぱり、ふみちゃんよりあーちゃん好きの人の方が多いんじゃないかな、なんて気がします。

「いやお前、それ自分が好きだから言ってるだけなんちゃう?自分の意見を勝手に一般化するなし(笑)」と思われるかもしれませんが、実は、客観的なデータ・数字としてしっかりそれが現れているのです。


志村さんの大ファンである僕は、数年前に開催された志村さんの原画展で、志村作品キャラクター人気投票が行われていたという情報をキャッチしました。

shimuratakako.gengaten.com
上記サイトにもまとめられていますが、原画展公式のツイッターアカウントでも、結果が報告されていたのです。

素晴らしいイラスト付きの結果がこれだ、食らいやがれ…!

 


…そう、何と志村作品全キャラ中2位&3位という僅差ではありますが、約2000名の精鋭志村さんファンの中には、やはりあーちゃん好きの方が多かった…!

まぁ1位は放浪息子のキャラなので今回は触れませんけど、僅差といいつつポイント的には結構な差(むしろ、1位と2位のあーちゃんの差がめちゃくちゃ僅差)なので、あーちゃん派日本代表の僕としては(いつ代表になったんだよ(笑))、この結果は納得のものでした。

(もちろん、ふみちゃんも堂々の全キャラ中3位ですから、当然とても人気だといえるんですけどね。)


この先Frankさんがどれだけふみちゃんの魅力を語ってくれるのか、あーちゃん派世界代表として、楽しみに待たせていただくといたしましょう。

(なお、志村さんは今年の10月にも個展を開催される予定!くぅ~、行ってみたくてなりませんね…!)

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*1:Shimura,Wandering Son, 2:100–101.

*2:Yoshiya, Yellow Rose, chap. 2.