青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その27:レズ・ビアン

今回で英語版全4巻中の3巻まで触れるパートがおしまいの感じですね。

3巻パート最後のセクションのタイトルも、やや特殊なもののようです。

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Rezubian":「Lesbian」の日本語ローマ字表記を用いてみた。

漫画作中で用いられている、本来の表現を使っていただければよいであろう。

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日本文化の中でのレズビアンについて語る感じのようで、Lesbianを日本語っぽく表記した形ですね。

作中の表現でOKという話でしたがそれもイマイチつまらないので、普通の表記ではなく、日本語っぽいということから、平仮名で「れずびあん」とかにしようかとも一瞬思いましたけど、これも硬派な記事には似つかわしくないし微妙ですね…。


何かいい呼称はないかと検索してみたら、Wikipediaにまさに専門の項目があり、色々と用語が掲載されていました。

ja.wikipedia.org
御神酒徳利とか、正直「何やそれ」って笑えましたけど、これは御神酒(おみき)の徳利(とっくり)が同型2つで1セットであることからレズビアンを指す隠語だそうですが、もう死語みたいですね。

まぁこれも凝り過ぎですし、結局日本ではレズビアン以外にほぼ呼ばれ方はない感じ……ですが、ちょうど考察記事本文でも触れられていましたけど、「レズ」という略称表現にはやや侮蔑的な意味合いも含まれるため、短く呼ぶ際には「ビアン」と呼ぶこともある、という話……これは、上のWikipedia記事を見る前にも、実は既に存じ上げていました。

なので、タイトルはその辺を意識して、レズ・ビアンとちょっと区切る形で日本文化的な文脈があることを仄めかすといたしましょう。

「ビアン」自体は、作中で使われていたことは確かないと思いますけど、「レズ」はありますしね、ちょうど良いのではないかと思います。

しかしこの名称に関しては個人的に……と、長くなりそうなので、本題の翻訳の後にまた触れさせていただきましょう。


画像は、英語版第三巻のお試しページから、まだ使っていなかったカラーページを拝借してみました。

レズビアン回らしからぬ、作中ほぼ唯一(?)の異性カップル・モギー&兄の、とても良いツーショットですね…!

英語版3巻・巻頭カラーページ、https://www.amazon.com/dp/1421593009/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第27回:151ページから155ページまで)

レズ・ビアン

典型的な百合作品の主人公は、他の女性に恋愛感情や(より成熟した作品では)性的魅力を感じている一方、必ずしも自分をレズビアンだとは思っていない、というのが定説である:エリカ・フリードマンの有名な百合の定義を引用すれば、「レズビアンアイデンティティを持たないレズビアンのコンテンツ」となる*1。『青い花』のふみもその例外ではない;このルールを最も破りかけたのは、松岡の友人たちに「そっち系のひと」と言う場面だ。しかし、英語版第三巻では、自分はレズビアンだと堂々とそして挑戦的に宣言する少女が登場する(『青い花』(6) p. 177/SBF, 3:357)。これは一体どういうことなのか、そして『青い花』の大きな枠組みの中ではどのように位置づけられるのだろうか?

 この事件は、志村貴子が『青い花』の各巻に散りばめている、「若草物語」というサイドストーリーの中で起きているという点を押さえておく必要があろう。志村はこのサイドストーリーを、物語本編の出来事に新たな視点を与えるために使っている。場合によっては、日向子、織江、並びに杉本姉妹およびその母親が登場する物語のように、過去の出来事や脇役の背景を描く場合もある(『青い花』(2) pp. 183-5、(3) pp. 2-3、159-74、176-7、(4)  pp. 167-74、(5) pp. 163-70/SBF, 1:379-81, 2:2-3, 2:159-74, 2:176-77, 2:347-54, 3:165-72)。

 さらに別のケースだと、「若草物語」は、本編とほぼ同時期の出来事を描いているが、本編の出来事や登場人物とは直接関係がない場合もある。その代わり、これらは漫画のテーマに対する注解として機能している (『青い花』(6) pp. 173-6、(7) pp. 171-4/SBF, 3:353-56, 4:173-76)。

 自称レズビアンの前田とその友人である中島のシーンは、後者の例である。制服から見て、二人は藤が谷女学院の生徒であろう。つまり、このサイドストーリーの第一の、そして最も単純な役割は、藤が谷には他の少女に惹かれる生徒がもっといるという事実を読者に知らせることである。

 実際、これは数字的にもほぼ確実なことといえる。藤が谷はおそらく全校生徒が数百人、高校の三学年は各学年2~3クラス、1クラス20~30人程度と仮定すると、少なくとも200人はいる可能性が高い。

 2019年の日本政府の調査では、調査対象者の0.7%が「レズビアン、ゲイ、同性愛者」であると回答している(これに対し、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルトランスジェンダーアセクシャルのうち1つ以上であると回答した人は3.3%である)*2。より最近の別の調査(電通が実施)では、自分をレズビアンだと思う人は1.33%であった(一方、自分を「性的マイノリティ」だと思う人は8.9%)*3

 この数字から、どの場合においても、藤が谷の高校生の中には少なくとも複数名の生徒―恐らく片手で指折り数えられるぐらいの人数―が、いかなる合理的な定義においてもレズビアンとみなされる人であると結論づけられる。つまり、日向子と織江は恐らくクラスで一人の存在ではなく、また前田もそうであろう。

 前田の物語は、他にどのような機能を果たしているのだろうか?恐らく最も明白なものは、近現代の百合作品に多く見られるエス恋愛のフィクション世界を、日本の若いレズビアンが経験し得る現実世界と対比させることであろう。百合フィクションの世界(『青い花』はそのオマージュであり批評でもある)では、女子校の生徒たちは(『嵐が丘』の恭己と川崎のように)想像上のカップリングにうっとりとしている。一方、親たちは全くの無関心か、あるいは更に熱狂的に反応する―あきらの母親があきらの藤が谷入学初日の後に見せた反応を思い出してほしい:「そのうちすてきなガールフレンドでもつれてきてよ」(『青い花』(1) p. 27/SBF, 1:27)。

 しかし、前田の世界では、彼女は「レズボー (lesbo)」((日本語において)「レズビアン」の短縮形、差別の意も込められた呼称である「レズ」の、英語版にあたる蔑称。※訳注:日本語版では、単に「レズ」である)、「ブス (ugly)」(busuの英訳、これは特に、醜い女性のことを指して用いられる)と呼ばれてしまうのだ。幸いなことに、彼女はそれほど気にせずいられているようだが、これは同性愛嫌悪によるいじめの典型的な例である。

 志村が、前田の受けた扱いと藤が谷の他の場所で起こっている百合的な出来事とを並列に挙げて記述していることに、ケチをつけたくなる人もいるかもしれない。前者はトーン的に不快感があるし、両者が同じ学校に同時に存在するのは、やや矛盾しているようにも思えるからだ。しかし、私が理解する所では、これは志村の『青い花』執筆以前、あるいはちょうど執筆していた頃の日本の状況とそれほど変わらないし、むしろかなりの程度、現在でもそうであると思われる点なのである。

 ここでの差異は、漫画やアニメ他、エンタメにおけるレズビアンと、現実世界のレズビアンとの区別である。レズビアンは、非日常や不適合なものが刺激や興味をそそる世界であるエンタメという文脈下においては、完全に許容されるものとなっている。このようなエンタメには、レズビアンが登場するポルノ作品から、内気で無邪気な女子学生を描いた「ピュア百合」まで、どんなものでも含まれ得る。(実際、『青い花』自体がその一例である―本作が『マンガ・エロティクス・エフ』という雑誌に掲載されていたことを思い返して欲しい。)

 しかし、日本では、エンタメにおけるレズビアン(あるいはLGBTQの人々全般)の存在と受容は、社会における彼らの存在の承認と受容にまでは繋がらなかった。20世紀初頭、同性愛は異常で腐敗したものであるという欧米的な思想が日本に影響を与えたが、根本的な問題はもっと別の所にあるのではないかと思われる。この生き方を選択するレズビアン(より一般的にはLGBTQの人たち)は、明治以降に制度化され喧伝布教もされてきた、現在でもなお大きな影響力を持つ日本の家族像のテンプレートというものに、全く適合しないのである。

 このテンプレートにおいて、女性の人生の歩みは、高校と恐らく大学に通い、もしかしたら数年間は出世街道に乗らないフルタイムの仕事で働くこともある、という形のものだ。その後、結婚し、子供を産み、子供に人生を捧げるために退職することになる。子供が大きくなったら、パートタイム労働と親の介護に時間を割くこととなる。これは、男性の理想として見られるものとは全く別の人生設計である:男性は、大学まで通い、卒業後は大企業に就職し、いずれは家事や育児をする妻を得る、というものだ。その間、男性は、圧倒的に男性の多い環境で仕事と人付き合いに専念する。

 こういった類の女性の人生に対する凝り固まった考え方は、少なくとも二つの点でレズビアンの人たちに影響を与える。第一に、長期的な雇用の可能性が限られる結果、自分自身を養う能力、ましてやパートナーを養う能力に、制限が加えられてしまうという点だ。「中小企業でも大企業でも、誰もが同じような親族関係に参加しているという前提がある。」したがって、レズビアンは、単に男性を見つけられていない未婚の女性として見られてしまうのである*4レズビアンの人たちは、数年間は異性愛者の独身女性と同じような雇用の道を歩めるかもしれないが、レズビアンというステータスは、日本企業が正社員に期待することとは決して相容れないものであるため、永久には無理だといえる。

 第二に、伝統的に考えられてきた日本の家族の中に、レズビアンの居場所がないということがある。あるレズビアンは、「日本には、父親と母親がいて子供がいる、それ以外の形は誰も家族とみなさない。それ以外のものは本当の家族ではなく、ただの歪みであって…」とコメントしていた*5

 このシナリオには微調整の余地がある:例えば、男性に愛人がいることもあるし、その愛人との間に隠し子がいたり、妻の実家が跡継ぎ息子を確保するために婿養子として正式に養子縁組をしていたりすることもある。しかし、基本的なテンプレートは揺るがず、こちらは戸籍制度によって公的なサポートが与えられている(以前の章で取り上げていた通り)。

 この図式では、レズビアンの存在は「家族」という概念と本質的に相容れない。レズビアンは、女性として、伝統的に男性にのみ許された世帯主の役割を担うことができない。女性を愛する女性として、(男性の)世帯主の妻として、子供を産むという役割を担うことができないのだ。

 ゆえに、理論的には、二人のレズビアンが結婚して、どちらか、あるいは両方が子供を産むことができたとしても、多くの人はこれを「家族」とは考えないであろう。さらに、前述したように、このような非家族(日本的な視点から)は、経済的にも成り立たないだろう。なぜなら、妻子を支える長期的な稼ぎ手としてのレズビアンという概念は、従来の企業における雇用のあり方と相容れないものだからである。

 社会的規範に適合しない人たちに対して社会が取り得るアプローチは、彼らを槍玉に挙げて非難することから、単に無視することまで、様々である。日本では多くの人が後者の道を選び、レズビアンという存在を意図的に認めないことで、日本のレズビアンを不可視化してきたように思われる。

 例えば、釜野さおりは、1987年当時と今世紀初頭の日本人大学院生との出会いを語っている。どちらの場合でも、学生らは自信をもって「日本にはレズビアンはいない」と言い切った*6。『青い花』の例でいえば、日向子が母に織江との関係を打ち明けた後の経験が挙げられよう:母は、日向子の叔母と一緒になって男性とのお見合いを計画し続けるのだ(『青い花』(8) p. 29/SBF, 4:209)。また、織江も同様の経験をし、両親はこの問題について議論することを拒否しているようである(『青い花』(8) p. 31/4:211)。

 とりわけ、この不可視化の押しつけは、過去に多くの日本のレズビアンが自分自身をレズビアンとして考えることを妨害してきた:自分と同じような人を知らなければ、自分が何らかの明確なグループの一員であると考えることは難しいのである。今の時代であれば、その知識はインターネットで検索すれば出てくるかもしれない。(実際、前田や彼女をいじめていた者たちがレズビアンを知ったのは、そこからなのかもしれない)。

 しかし、『青い花』は、インターネットが今ほど普及していない時代に作られた作品である。そして、いずれにせよ、ふみが自分のアイデンティティを探るには、実際の大人のレズビアン、すなわち日向子との会話の方が、もっと劇的に効果があるものだといえる。その結果、彼女はまだ「レズビアン」という言葉を自分に当てはめてはいないものの、友人たちにカミングアウトし、自分が「そっち系のひと」であると認めることができるのであった。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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そんなわけで、今回も青い花のストーリーよりも社会的な考察がメインの内容でしたが、やはり読み応えがありますね。


僕はレズビアンのみならず同性愛者や同性愛そのものに差別感情や嫌悪感はマジで全く一切存在しない一方、とはいえ自分にはない感情でもあるので、やはりどうしても他人事というか、TV・物語のお話に過ぎないみたいな、自分には関係ない的な考えになってしまいがちなんですけど、せっかくこういう素晴らしい作品と素晴らしい考察に触れさせてもらえた以上、この辺はもう少し真剣に考えてもいい点かもしれないな…と思える次第にございます。


関連して、途中にもあった差別的な蔑称みたいな話で、最初に書いていた点にもつながりますが、もちろん当事者がどう感じるかが重要で、外野の意見は本当にどうでもいいとは思うんですけど、正直、「レズ」に差別的ニュアンスがないとは言わないまでも、「ビアン」というのが音の響き的にも何かイマイチで、逆に小馬鹿にしてるみたいで失礼に当たらんか…?って気が物凄くしてしまうんですよねぇ、個人的に。

(まぁ、別に略称ではなく、ちゃんとフルで呼べばいい話なので困ることはないんですけど。)


…と、何気にWikipediaレズビアン」の項目の方に、似たようなことが触れられていました。

ja.wikipedia.org

とくに若い世代の間には「ビアンという言い方は古臭いし恥ずかしい」という感覚もあり、当事者・非当事者ともに、なんらネガティブな意味合いを込めることなしに「レズ」という語を使うようになってきているともいう。 

これはまさしく理解できるというか、そう思いますねぇ。

 

そういえば僕が初めてこの言葉を知ったのは、小学校低学年の頃、特に仲良いわけでもなかったクラスメイトから、「男を好きな男はホモ!じゃあ女を好きな女の呼び方教えてやろうか?」といわれて、別に知りたくもなかったし特に返事もしなかった気がするのに強引に耳打ちでこっそり(物を知った小学生にありがちな、しょうもないムーブ(笑))、「レズ」と聞かされて、耳打ちのコソコソ声ではっきり聞こえなかったこともあって「レーズン?なぜ??」と思ったというのがハッキリ覚えてる記憶ですけど、そのせいで女性同性愛は美味しそうな響きだなぁ、というイメージが今でも多少あるんですが(変な意味ではなく、レーズンという意味で。まぁ、よくある子供のご多分に漏れず、僕も給食のレーズンパンとかは嫌いだったので、なぜ美味しそうなのかは自分でも意味不明ですけど(笑)、まぁ食べ物の響きならやっぱり良く聞こえるものです)……だから何だよとしかいえない、しょうもなさすぎるクソエピソードでした(笑)。


そもそもこのレズビアンというのはどういう意味なのか語源が気になったんですけど、これは普通にWikipedia大先生が紹介してくれている通り、古代ギリシャのレスボス島(island of Lesbos)に住む、詩人サッフォーがその由来だったとのことで、「あっ、サッフォー!こないだ同人誌で見た所だ!!」と、まるで進研ゼミのようになっちゃいましたね(笑)。
(まぁLesbianという語自体にSapphoの要素はなく、島の名前だけですが。)


個人的にはやっぱり名前は名前で、「レズ」という略称も侮蔑的な意味合いはないと思うけどな…と感じるものの、こればっかりはやはり当事者の方がどう感じるかが重要かもしれませんね。

(ただ、そういえば先ほどの小学生の頃のエピソードで書いていた通り、昔は男性同性愛は「ホモ」一択だったように記憶していますが、これも時代とともにすっかり変わりましたね。
 「ホモ」は、やっぱりちょっと蔑称的な意味合いが強いかな、って気は、確かにするかもしれません……。)


全然関係ないんですけど、僕はやっぱり名前なんてどうでもいいと感じる傾向が強いのか、よく万引きのニュースとかで「万引きと呼ぶのをやめろよ。窃盗だろ?」というコメントをめちゃくちゃ目にすることがある気もするんですが、その指摘を見る度に、

「え?何が違うん?窃盗の方が重犯罪みたいなイメージ、別に全くないんだけど…」

と感じてしまい、

「その違いに意味はあるのだろうか…?別にどっちも単に泥棒なだけでやってることは同じなんだし、多分万引きする子にも、それを言い換えた所であんまり響かないと思うけど…。
 下手したら『窃盗団・盗賊団』みたくカッコいいと感じる子までいるかもしれんし、よっぽど子供にも分かりやすい『最低最悪ゲボカスクソザコナメクジ』罪を犯した、みたいなレッテルが貼られて、一生周りにそう呼ばれ続けるとかなら多少抑圧にもなるかもしらんが…」

という気もしてしまう……という、これまた全く何も青い花とは1ミリも関係ない、どうでもいい話でした(笑)。
(ただ単に、そういう考えの主張を今まで見たことがなかったので、名前うんぬんのネタでふと頭に浮かんだこの機会に、どうしても語ってみたくなってしまった次第です。)


ついに次回から最終巻パートですね。

少しずつ大きく動き出していく感じだと思いますが、じっくりと楽しみに読み進めていくといたしましょう。

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*1:Friedman, “Is Yuri Queer?”

*2:Daiki Hiramori and Saori Kamano, “Asking about Sexual Orientation and Gender Identity in Social Surveys in Japan: Findings from the Osaka City Residents’ Survey and Related Preparatory Studies,” Journal of Population Problems 76, no. 4 (December 2020), 443–66,
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/20760402.pdf この論文ではまた、日本やアジアにおいて性的指向性自認に関する調査を実施することの難しさについても、興味深い議論がなされている。

*3:Dentsu, “First time poll categorizes straight respondents; analyzes their knowledge,awareness of LGBTQ+ matters—Most ‘knowledgeable but unconcerned’; do not think LGBTQ+ issues relate to them—,” April 8, 2021, https://www.dentsu.co.jp/en/news/release/2021/0408-010371.html ※訳注:日本語版のリンクは以下。https://www.dentsu.co.jp/news/release/2021/0408-010364.html

*4:Sharon Chalmers, Emerging Lesbian Voices from Japan (London: RoutledgeCurzon, 2002), 81.

*5:Chalmers, Emerging Lesbian Voices from Japan, 81, quoting interviewee Chiho.

*6:Saori Kamano, “Entering the Lesbian World in Japan: Debut Stories,” Journal of Lesbian Studies 9, no. 1/2 (2005), 12–13, https://doi.org/10.1300/J155v09n01_02