青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その17:規則通りの、戸籍による家父長制

今回のセクションもタイトルの補足をいただいていたので、そちらから参りましょう。

 

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Patriarchy by the book":「by the book」という、「規則、法的要件、または公式手続きを厳密に守る方法で」(Wiktionaryより)という意味の英熟語を、まさにその意を内包する家父長制のことを指す上で使っている。しかし、「the book」は、そのまま「戸籍」(koseki) そのものも指している。

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また家父長制うんぬんがやってきました。

改めて、中々に硬派な話が繰り広げられそうですね。

じっくり読ませていただきましょう。

英語版2巻・内カバー、https://www.amazon.com/dp/1421592991/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第17回:99ページから103ページまで)

戸籍による家父長制

ふみが恭己の実家を訪ねたときの節で、杉本家の当主である恭己の父親が不在であることを指摘した:「姿も見えず、名前もなく、言及もされないままである」と。そして今、ようやく、和佐の結婚式を舞台にした話の一コマに、非常に一瞬ではあるが、その姿を捉えることができた(『青い花』(3) p. 94/SBF, 2:94)。しかし、その姿は見えても、名前も言及もないままである。

 作者の意図を見極めることはいつだって難しい。それでもなお、この不言及に徹する表現は、志村貴子版『夜中に犬に起こった奇妙な事件』として、意図的に行われたものである可能性があるといえよう―重要なのは、言及するもの・見せられるものではなく、むしろ示されないものにあるのだ。アニメ版『青い花』では、恭己の父に人間味を持たせるために、一つのシーンが追加された:結婚式を控えた父親が、まるで小津映画の父親のように、娘を失うことを嘆きながら、裏庭に座って溜息をつき、天を仰ぐというシーンだ*1

 これは、本作品の意図に反しているように思う。杉本家について我々の知る全てのことと、この漫画の発展的なテーマとに照らし合わせると、この父親という存在は、感情や内面を持ったキャラクターではないはずなのだ。杉本姉妹には父親がいるし、実際にここに存在している、がしかし、彼は話の筋書きに何ら不可欠な存在ではなく、それゆえ彼についてこれ以上知る必要はないのである。

 彼は、家長という役割を体現しているに過ぎない。より具体的には、日本国家が管理する戸籍(こせき)という書類に、「筆頭者」つまり杉本家の事実上の当主として記載されている人物なだけである。戸籍には彼に続き他の家族が、年齢による序列とともに記されている:妻の千恵、「長女」の姿子、「二女」の和佐、「三女」の公理、「四女」の恭己となる。

 戸籍制度の前身は何世紀も前から存在したが、現在の戸籍制度は、明治時代の政府が日本人全体をその管轄下に置こうとしたことに端を発している。1871年に制定され、1898年に改正・整備された戸籍制度は、理想的な父系家族を規範として強要した。この理想的な家族においては、男性家長が、妻、未婚の娘、息子とその妻、そして順にその子どもたちなどからなる多世代家族を統率した―天皇が統治する日本の「家族国家」を縮図化したものである*2

 戦後、占領当局が行った改革により、表向きは日本国民を個人として扱う憲法が制定された。それに伴い戸籍制度も改正され、少なくとも理論上は父系制的な性質は排除された。戦後期間にはまた、離婚、日本人と外国人の国際結婚、並びに生殖補助医療の利用など、家族の構造や慣習の変化に対応した行政や法律の改正も行われた*3

 しかし実際の所、「改正」された戸籍では、依然として、夫と妻と一人かそれ以上の実子がいる核家族というものに代表される、家父長制と異性愛規範社会の理想とが反映されているのである。

 例えば、我々読者が杉本パパを目にすることができる(唯一の)場面を考えてみよう:彼は、和佐が各務先生と結婚する前に、娘とともにバージンロードを歩み、エスコートしていく。英米流に言えば、彼は「花嫁を手離し、譲り渡す」のであり、この言葉は、男性が女性を所有し、結婚によってその所有権が他の男性に移ることを暗示しているのである。明治時代の戸籍制度では、和佐は杉本家から除籍され、各務先生本人またはその父か祖父(存命の場合)の率いる各務家の戸籍に加えられることで、この譲渡はまさに文字通りのものとなっていたはずである。

 戦後の戸籍制度は、表向きは家父長的ではなく、より平等主義的なものとなる。和佐は杉本家の戸籍から各務家の戸籍に移されるのではなく、各務先生と一緒にそれまでの戸籍を出て、新しくできた核家族に対応する新しい戸籍に入ることになったわけだ。ただし、どちらかが「筆頭者」となり、その姓が戸籍に記載されることになる。一般的な慣習に従えば、各務先生側がこれにあたる*4

 もし和佐が杉本姓を名乗り続けたい場合、大きな障害がある:どの姓を名乗るかは、単に個人としての彼女自身と国家との問題だけではない。戸籍の論理では、自分が何らかの戸籍に入らねばならず、一世帯として夫と一緒に戸籍に入らねばならず、戸籍では一つの姓を名乗らなければならないと決められているのである。各務先生との婚姻届を出さない(事実上の内縁関係に入る)ことで、元の姓を維持することは可能かもしれない。しかし、その場合、二人の子供は嫡出子とはみなされない可能性もある。ある夫婦は、まさにこの問題で、長い間、法廷闘争に明け暮れた*5

 日本国家は、全ての人を戸籍というプロクルステスの寝台(※訳注:杓子定規的な、容赦ない強制の意)に押し込め、その次元を少しずつ、ゆっくりと、不承不承に調整することを進んで行ってきているのだ。同様に、日本社会は、世帯というものを、家族そのものの概念を伴う戸籍と同一視するようになった:家族であることは戸籍に一緒に登記されていることであり、一緒に登記されていない場合は家族ではない、ということだ。このことは、特にLGBTQの人たちのケースで見ることができる。

 例えば、志村の『放浪息子』におけるトランスジェンダーの主人公である二鳥修一を考えてみよう。もしこの子が日本の法律に従って性別変更を行った場合、二鳥家の戸籍を追われ、別に戸籍を作らなければならなくなる―事実上、生まれた家族から切り離されることになるのだ*6

 これを戸籍の論理で正当化する人もいる。仮に修一の姉の真穂が修一より一歳年下だった場合(一歳年上ではなく)、修一が性転換した後の二鳥家の戸籍には「長女」が二人いることになる。国は「このような紛らわしい戸籍の記載を防ぐ」必要がある、というのがこの場合の主張だ。しかし、この論理は、より家父長的な規範に沿った他のケースには適用されない―例えば、ある女性と結婚して娘をもうけた男性が、その女性と離婚して別の女性と再婚し、さらに次の妻との間に娘をもうけるような際、その間全てで、戸籍上の「筆頭者」を務めるケースがある。この場合、この戸籍には「長女」の記載が二つもあるが、国家はこれを一切気にしない*7

 また、ふみとあきらの関係が続き、人生のパートナーにまでなった場合のことを考えてみよう。日本の法律では、女性同士の結婚を明確に禁止しているわけではないが、しかしここでも改めてまた戸籍の論理が展開され、二人に立ちはだかるのである:二人が結婚して戸籍を作る場合、一人は夫、一人は妻を指定しなければならないのだ。このことは、日本国憲法の曖昧な表現やジェンダーに関する日本の法の他の側面と相まって、これまで日本の裁判官が婚姻の平等を否定する正当な理由となってきた*8

 吉屋信子がパートナーである門馬千代としたように、年上の者が年下の者を養子にすることも、この制約を回避する方法の一つである。この場合、保険に加入できたり、お互いに対しての医療的な決断を下すことが可能になるなど、未婚の夫婦では通常受けられないメリットが得られる。しかし、このような取り決めは、パートナーの家族から異議を唱えられる可能性があるだろう*9。また、これは年齢による関係のヒエラルキー化という概念を助長するものであり、『青い花』では、この考えは暗黙の内に(時には明示的に)否定されているものなのだ。

 確かに、男性も戸籍制度によって害を受けることがある。例えば、実父に否認された男性のケースでは、戸籍上の息子としての存在がずっと認められなかったという事件も知られている。その男性は、社会制度の外で生き、公立学校にも通えないまま、36歳の時に実父が亡くなり、その後の裁判を経て、ようやく法的に曖昧な状態から解放されたとのことだ*10

 しかし、和佐の置かれているシステムが(『青い花』の他の全ての女性たちとともに)、結局は男の、男による、男のためのものであることは明らかである。(上述の話では、男性の法的存在を証明する上で、男性の母親と彼女の戸籍は一切無関係であった。)ふみとあきらは、交際を始めるにあたって、法の外側で生きることになる。あるいはもっと正確に言えば、男性との交際関係という文脈の中以外においては、ほとんど彼女たちの人生を認めようとしない規則や規制の中に閉じ込められることになるといえるのである。

 典型的な「女子学生百合」作品は、そこに男性の存在が一切見えない女性同士の関係の空想世界を描こうとするあまり、この現実の上をすり抜けてしまう。だが『青い花』は、女学生百合の外観をもつにもかかわらず、ジェイン・オースティンの小説のように、一見すると軽薄な表層の下に、より深くより暗い現実を仄めかしているのである。

 以前、私は恭己の父親を、また別の家庭を顧みない父親、『マンスフィールド・パーク』のトーマス・バートラム卿になぞらえたことがある。彼は物語の大半を、カリブ海アンティグア島にある農園で過ごしている。この小説の中で、おっとりとしたヒロイン、ファニー・プライスは、周囲から「夕食の輪の中で、あまりにも大人しすぎる」ことを咎められた後、伯父であるトーマス卿についてこう言う。「でも昨晩、伯父様に奴隷売買について質問したのをお聞きになったでしょう?」*11

 これは非常に長い小説の中の一文にすぎない。それでも、19世紀初頭の英国社会に関する読者の知識と合わせると、ファニーが最終的に嫁ぐことになる貴族社会を支える社会経済システムについて、大いに語っていることになるのだ。志村がそう意図していたかどうかはともかく、少なくとも現代日本社会について表面的にしか知らない私のような人間にとっては、『青い花』も同様に、たった一枚のイメージが大きなことを語りかけてくれるのである。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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相変わらず日本社会の旧態依然とした悪しき部分に、遠い異国の地からにもかかわらず、かなりの精度で切り込まれている深い考察ですね。


そういえば全く意識したことがありませんでしたが、花嫁がバージンロードを父とともに歩き、花婿に受け渡すという行為、これは女性を所有物として扱っているも同然といわれたら、確かにそう取ることもできるかもな、という気もしてきました。

ん?じゃあこの伝統って、家父長制の強い日本だけのものなの?と思って調べてみたら、別に普通にキリスト教の結婚式でも、むしろ大トリとして、花嫁とその父がバージンロードを歩く、って形になってますね。

(参考:↓の記事、一般的な結婚式の順番、ラスト8番が「花嫁の父と花嫁」ですね)

www.brides.com

上記記事、「伝統的なキリスト教式ウェディングの進行順序」より

ただ、この記事でも「手離す・譲り渡す」を意味する「giving them away」はクォーテーションマーク付きで強調されて、リンクが張られており(リンク先は、↓の、「バージンロードを歩む際に花嫁が知っておくこと」という記事)…

www.brides.com
花嫁からのFAQとして、「父は『give me away』しないといけませんか?」という質問があり、回答は当然、「もちろんその必要はありません」となってますね。

色々センシティブな時代になったということでしょうが、気にする人が嫌な思いをしないで済む配慮がなされているというのは何よりでしょう。


まぁ改めて、果たして青い花および志村さんがその辺の社会学的見地まで意識して描かれていたのかどうかについては、個人的にはやや疑問符がつく気もするものの、逆に、仮に取り立ててそういう部分に切り込む意図などなしに描かれていたとしても、これだけ深い考察がしかも海外の読者さんの目を通して繰り広げられることが可能だというそれだけで、やはり志村さんのセンスがズバ抜けて光っている、あるいは人間にとって大切なものが作品の中に宿っている証左ではないかな…などと、浅い読者代表としては思わずにはおれません。

 
そんなわけで、法制度や戸籍といった難しい話になると途端にだんまりを決め込んでしまって恐縮ですが(笑)、そういえば前回は英語版翻訳の台詞でやや違和感のある部分を長々と取り上げた結果、中身には全然触れられませんでしたけど、前回の話の方がもっと色々語りたいことがありましたねぇ。

きっとまた関連する話も出てくると思うので、その際に改めて、もし機会があれば触れさせていただきましょう。

英語版第二巻(日本語オリジナル版3-4巻)の考察は残り4セクションですが、どれもそんなに長くなさそうですけど、一気に見るのはちょっと長すぎそうですし、2つずつ見ていく形にさせていただこうかと思います。

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*1:Sweet Blue Flowers, episode 10, “The Happy Prince,” 00:17.

*2:David Chapman, “Geographies of Self and Other: Mapping Japan through the Koseki,” Asia-Pacific Journal: Japan Focus 9, no. 29 (July 19, 2011), 6–7, https://apjjf.org/-David-Chapman/3565/article.pdf

*3:戦後直後から現在に至るまでの戸籍制度の運用については、デイヴィッド・チャップマン、カール・J・クログネス編『Japan’s Household Registration System and Citizenship: Koseki, Identification, and Documentation』(London: Routledge, 2014), 203–17に採録の、ヴェラ・マッキーの論文『The Changing Family and the Unchanging Koseki』を参照。

*4:青い花』が連載されていた当時、日本の結婚の96%以上で、妻が夫の姓を採用していた。Linda E. White, "Challenging the Heteronormative Family in the Koseki: Linda E. White, "Challenging Heteronormative Family in Koseki: Surname, Legitimacy, and Unmarried Mothers,", in Chapman and Krogness, Japan's Household Registration System and Citizenship, 253n16.

*5:White, “Challenging the Heteronormative Family in the Koseki,” 239–40, 249–51.

*6:Sh.hei Ninomiya, “The Koseki and Legal Gender Change,” trans. Karl Jakob Krogness, in Chapman and Krogness, Japan’s Household Registration System and Citizenship, 169.71.

*7:Ninomiya, “The Koseki and Legal Gender Change,” 177–78.

*8:Claire Maree, “Sexual Citizenship at the Intersections of Patriarchy and Heteronormativity: Same-Sex Partnerships and the Koseki,” in Chapman and Krogness, Japan’s Household Registration System and Citizenship, 190–91.

*9:Maree, “Sexual Citizenship at the Intersections of Patriarchy and Heteronormativity,” 194–96.

*10:Kana Yamada, “Now with a Legal Father, Saitama Man, 36, Ready to Start Own Life,”Asahi Shimbun, February 21, 2018, https://web.archive.org/web/20180222034739/http://www.asahi.com/ajw/articles/AJ201802210043.html、男性の父親は、現在の形で戸籍を存続させるための立法機関である、日本の国会議員の補佐官であった。

*11:Mansfield Park, chap. 21.