コメ返信や補足その1-31:仮定法をなるべく分かりやすく噛み砕いてみよう

前回の記事でいただいていたご質問、「couldやshouldはcanやshallの過去形?」という話から派生して、今回は仮定法の話に触れてみようかと思います。


まずなぜ仮定法の話が派生するかといいますと、これはもちろん、wouldやmightは形としてはwillやmayの過去形ではあるんですけど、特にこういった助動詞の過去形が絡む表現というのは単純に過去を表すわけではない用法がやたら目立ちまして、それが、いわゆる仮定法に関わってくる話になっているから……ってな具合ですね。


仮定法は高校英語で習うわけですけど、何となくややこしくて難しい雰囲気がプンプン漂っていますし、「何やコレ!結局どんな時に仮定になるのかよぉ分からんし、受験生に嫌がらせをするためだけに存在するクソみたいな文法事項だろこんなん!」…とか思えてしまいがちなのですが、まぁ正直僕も、習った当初は意味分かんなすぎて毎日壁を殴って泣いていたものです(まぁ壁は殴っていないし泣いてもいませんけど(笑))。

 

しかし、僕の通ってた高校は当時土曜日に特別講座みたいなのがあって、ある日の土曜(高2のことでしたが)、うちのクラスには英語の授業が割り当てられ、普段担当するわけではない先生がその時だけ別のクラスにシャッフルされて出張してくるというよぉ分からんシステムだったんですが、その初めて授業を聞く先生が用意してくれた講座が仮定法に関する話でして、それが大変印象的で今でも強く記憶に残っているため、まずはそちらからご紹介させていただきましょう。

 

その先生いわく、

「仮定法の『法』は英語で何て言うのか分かるか?分からん者は、ちょっと文法書の『仮定法』の章のタイトルを見てみ。

…そう、この『法』は、英語だとmoodなんだ。いいか、仮定法なんて聞くと法則みたいなもんがあると思うかもしれないが、これはあくまでムードでしかないんだよ。

 何か決まりとかルールがあるみたいな話ではなく、そういう雰囲気を出せる表現に過ぎないわけだ。

 その意識を忘れず、どういう使われ方をしているのか、ちょっくら見ていこうや」


…と、概ねそんな感じのイントロだったように覚えていますけど、色々学んでから改めてこの話を思い出してみるにつけ、これはマジで本質を捉えた素晴らしい教えだったなと、「う~んアレは良い授業だった」としみじみ感動を覚える限りですね。

(ちなみに、この先生、ちょびヒゲが生えていそうな(実際生えていたかは覚えてませんけど(笑))いいガタイのダンディなイケおじみたいな感じで、例えるならそうですね……パッと思い浮かんだのだとヒトラー総統とか、日本ならもう古い政治家ですが小沢一郎さんとか、あぁ、ラピュタのパズーの父親とかがめっちゃ近いですね!(…って、一応チェックしたら、父親じゃなくて親方でしたが(笑))

…まぁそんな先生のルックスなんてどうでもいいにも程がありますけど、そんな感じで授業を聞くまではちょっと怖い感じの先生に思えていたのですが思いのほか分かりやすくて面白い授業だったこともあり、英語、この先生の担当が良かったぜぇ~と思えたものです(メイン担当の学年が違ったためか、結局その1回以外自分のクラスの受け持ちに当たったことはありませんでしたが)。

 

マジでその先生の見た目などどうでもいいものの(笑)、かなり高圧的な見た目と口調からのその分かりやすい説明は良い意味で衝撃的で、高校生僕の心に深く印象に残ったのでした、というエピソードになります。

 

もちろん、「仮定法はただのムード……そうだったのか!仮定法、全て理解したわ」となるほど英文法や受験英語は甘っちょろいわけでは決してありませんが(笑)、本当に、その意識を持っているか持っていないかで仮定法に関するあらゆる説明の身に付き方が変わってくるのではないかとさえ思える、仮定法の最重要ポイント(意識すべき点)ではないかな、などと思えてやみません。

 

で、それを踏まえて仮定法ですが、これは結局、「過去形を用いることで、自分の中でその発言の実現可能性が低いことをアピールできる(そういう雰囲気(ムード)が出てくる)」という、ただそれだけなんですね。

これも、「いや何で過去形でそうなるんだよ、普通の過去形とどうやって区別すりゃいいわけ?!」とムカつきを覚えるポイントなわけですけど、これ、実は日本語でも意外と似たようなことはいえなくもないんですよね。


例えば、以下の2文を考えてみましょう。

「日曜日、雨なら(雨が降るなら)登山は中止で映画だね」

「日曜日、もしも雨だったとしたら(雨が降ったら)、登山は中止で映画だね」

…まぁ、「もしも」とか枕詞をつけてるのが若干卑怯ともいえますけど(笑)、まぁそれはあくまで飾りであって、なくてもそう思える話だと思うんですが、こいつらを比べた場合、過去形の「もし~だったとしたら」の方が、「多分そうじゃないと思うけど、万が一…」という、「意識している確率の低さ」が含まれているように思うんですけど、どうでしょうか。


ただちょっとこれではあんまり「そうかぁ?」とも思えるかもしれないので他にも考えてみると、例えば「もしも明日地球に巨大隕石が降( )、どうする?」という小学生が言いそうな頭悪い例え話(笑)、ここの空白にした部分を埋めなさいと問われたら、恐らく普通に・ごく自然に考えた場合「もし巨大隕石が降って来」と、過去形を入れるのではないかと思います(「降るなら」ではなく)。

これは間違いなく、無意識レベルで「過去形を入れると実現可能性が低くなる」と認識しているからであって、これは恐らく納得いただけるのではないかと思います。


(まぁ英語の仮定法でも必ず出てくる有名例文、「もしも私が鳥( )、…」なんかの方が分かりやすかったかもしれませんが(まぁ有名例文は「もしも」ではなく、「鳥だったらいいなぁ」ですけどね)、これも、「鳥だったら」「鳥だったとしたら」みたいに、普通は過去形を埋めますよね。

 もちろん、「もしも私が鳥なら、…」という文もまぁあり得なくはなく、日本語の場合は現在形でもOKなので(これが、英語だと基本的には×になる……後述)、厳密に英語の仮定法と対応関係があるというわけではないんですけど、でも、確率的にあり得ない話の場合、常識的に考えたら、普通は「隕石が降って来たら」「鳥だったら」という方が、日本語でも遥かに自然といえましょう。)

 

という感じで、日本語でも過去形になると「可能性が小さくなる」というイメージはまあまあ付くと思うんですけど、結局仮定法ってのはこの程度のもん、ってことなんですね。

例えば「自分だったらそれはこうするかな」という文を見て、「はぁ?!過去形?いきなり過去の自分の話をするってどゆこと?」などと考える人はいないわけで、英語の仮定法もそれと同じで、話の流れ・文脈で、「これは仮定のお話であり、過去の話をしているわけではないんだ」ということは、基本的に明らかになっているわけです。


そして先ほど上でチラッと書いた通り、今例え話として日本語の例を出しましたけど、あくまでそれは例であり英語と日本語には当然違いもありまして、両者を比べると、英語の方が「過去形にした際の実現可能性のなさのムード」が徹底している、という形になるようです。

これは僕もネイティブじゃないので受け売りの知識でしかないんですけど、英語の場合、現在形の条件文であれば「それが実現する可能性を確実に認めている」、一方過去形すなわち仮定法を用いた文であれば「それが実現する可能性をほぼ認めていない」というムードが醸し出されるそうで、例の鳥の文の場合、「If I am a bird, ...」という文にしてしまうと、日本語の「もし鳥なら、…」とは違い、英語では心のどこかに「俺ってマジで鳥かもしれないんだけどさ…」という雰囲気が出てくる(仮にそう思ってなくても、文の構造としてそうとしか読み取れない;逆にいえば、そう思ってない人からは絶対に出てこない)文になり、まぁ、「別にそう思うのは個人の自由だろうが!」という意見も分からなくはないですけど(笑)、少なくとも普通の人間はそうは思わないわけで、これは極めて不自然な英文になる(受験英語なら×)、ってことなんですね。


なのでこの場合、仮定法で「If I were a bird, ...」としなくてはいけない(これは特別ルールで、仮定法の場合、wasではなくwereを用いるという話なわけですけど、そのルールさえ覚えれば逆に仮定法かそうじゃないかの区別が圧倒的に付きやすいともいえるので、これは面倒というよりむしろありがたいルールといえましょう)という話になるわけです。

 

なお、実現可能性がゼロのことであれば話は単純ですが、そうでない場合、これは結局どちらを使うべきというルールなどはなく、話し手の意識の問題でどちらを使うかが変わってくるという、まさにムードの問題でしかないといえます。


これに関して、またまたもう何度も引用させていただいているマーク・ピーターセンさんの著作に極めて分かりやすい解説がありました。

以前の記事(確認したら、現在完了進行形の話でしたね)で、「もう引用はしない、これが最後でしょう」と書いていたのですが、幸いにしてそれとは別の本なので、今一度引用させてもらっても嘘にはならないからセーフ…とさせていただきましょう(笑)。


今回はマーク・ピーターセンさんの『実践 日本人の英語』という著作からになりますが、今は仮定法の話をしているので、ごく一部今の話題とは違う部分を省略する形で引用させてもらおうと思います。

以下、上記著作の87ページ、「6 ありえない話」からの部分引用です。

 

「もし今日が投票日なら」

 アメリカでは、大統領選挙が近づくと、民主党共和党それぞれの専属世論調査会社が週に1回くらい、「もし今日が投票日なら、どちらに投票しますか?」と無作為サンプリングで選んだ有権者に質問する。さて、英語では通常、この質問をどのように表現するのだろう?まずは皆さんも考えて欲しい。

 「もし……なら」とあるので、if節を用いた文になることはわかるだろう。後半は疑問文、たとえば

 If today is voting day, ...(後半省略)…

という言い方を考えてみよう。これは、私が勝手に作った英語だが、大学入試の和文英訳問題であれば、おそらくこれが受験者の典型的な解答になるだろうし、同じセンテンスを考えた読者も多いかもしれない。

 

採点してみると

 この解答に出会った採点者は、さて、何点をつけるだろうか?私の予想ではおそらく、「もともとの日本語の意味には全然なっていない英語だ。零点にしたい」という気持ちを抱えつつ、ぐっとこらえて、なんとか10点満点中5点を付ければ、いいほうだろうか。

 この解答が、なぜそんな点数になるのだろう?「もし」=if、「今日」=today、「投票日」=voting day、…(後半略)…と、語彙のレベルはちゃんとおさえられている。また、…(後半部に関する話、略)…。

 とはいえ、そうした「美点」よりも、はるかに大きな「欠点」が2つある。そのため、結局、この解答の得点はせいぜい5割といったところなのである。

 

動詞の落とし穴

 具体的に見ていくとしよう。

(…まず最初にされていた、後半部の話、略…)

 もう1つの欠点は“If today is voting day, ..."に見られる。確かに「もし今日が投票日なら」という意味の文だが、この言い方だと、「もし今日が投票日なら……?」と訊いた人自身の意識において、「投票日は実際に今日かもしれない」「今日である可能性もある」といっていることになってしまうのである。これは、世論調査としては不条理劇に近い。

 この調査では、「今日が投票日」であるはずがないのは明らかで、あくまでも「もし、今日だったら」と、事実と反することを奏しているので、英語なら仮定法の出番である。つまり、この設問の場合、仮定法過去形を使った

 If today were voting day, ...(後半省略)…

というような解答であれば、満点になるはずだ。

 

確率意識

 「もし今日が投票日なら」に関する誤解の原因は、話し手[書き手]が考えている、「それが実際に起こりうる可能性」に関する意識の表し方における、日本語・英語間のギャップにあると思われる。

 日本語なら、「もし今日が投票日なら」という表現を使うとき、話し手[書き手]は投票日が「今日かもしれない」ということを前提にしている場合もあれば「今日ではない」ことを前提にしている場合も、両方あるだろう。たとえば、「えっ?今日?まさか!もし今日が投票日なら、早く行かなきゃ。もう7時半だぜ」といったようなシチュエーションが考えられる。

 ところが、英語では、これは表現上あり得ない話だ。「今日かもしれない」ということを前提にしている場合と、「今日ではない」ことを前提にしている場合とでは、そもそも表現が異なり、同じ表現では言えないからである。“If today is voting day, ..."と言ったら、それは必然的に「今日かもしれない」ことを前提にしており、逆に、「今日ではない」ことを前提にしている場合であれば、“If today were voting day, ..."と、仮定法過去形を使って表現するしかないのである。

 要するに、日本語とは違って、英語の場合は、「ありえる確率」に対する意識の違いによって、表現そのものが変わってくるのだ。この違いを無視して英語を使おうとすると、カタコト英語の印象を与える可能性が高いのはもちろんのこと、意思伝達上、大きな障害にもなりかねない。

 ところが、私の「英作文」の授業の受講生や、大学入試の一般の受験生が書いた英語を見ている限り、高校までで受けてきた英語教育では、どうやらこうした問題意識を持たなくても何とかなったようである。

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…と、最後は「何とかなってました、サーセン(笑)」と思えましたし、以下、まだまだめちゃくちゃ面白い話が続くのですが、そちらはぜひ本書を実際にお手に取ってお確かめ下さい…と、長々と引用させていただいたお礼として宣伝に変えさせていただこうと思います。


そんなわけで、ぶっちゃけ僕の最初の方のグダグダ長いだけの文は要らなかったのではないか…?と思えるぐらいに(笑)、あまりにも分かりやすい説明になっていたわけですけど、結局仮定法なんてのは本当に「話し手の意識・ムード」が違うだけに過ぎない、ってのが基本筋に過ぎないんですね。

 

…と、まさにちょうど↑の引用部の章の最初に、もう一つだけ極めて面白い(興味深い=interestingの面白さですね)仮定法に関するネタがあったのですが、もう大分長くなったので、発展編としてそちらのネタと、あとまだ説明不足だった点などを含め、次回もまた仮定法の話をちょろっとだけ続けさせていただきましょう。

そちらの発展ネタは、元ネタは同じ本ですがもうあまり長々と引用はせず、ポイントだけ抜粋して自分の文で語ろうかな、と思っています。

 

それではまた次回へ続く…という形ですが、記事アイキャッチ画像、今回も全くネタがなかったわけですけど(そもそもアイキャッチ画像なんて必要なのだろうか、という話な気もしますが(笑))、↑で引用した方ではなく、前回引用したマーク・ピーターセンさんの本の仮定法を語る章タイトルが「“仮定”訪問」と、おぉ~これはいいタイトルだね!と思えてやまないものだったので、今回はそのネタをパクって、仮定法回ということで家庭訪問のいらすとをお借りしましょう。

またまた記事内容とは全く関係のない、取って付けただけの無意味画像でした(笑)。

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