青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その6:愛のヒエラルキー

前回の記事の翻訳部をPDF化する際にFrankさんは記事の部分も(自動翻訳で)ご覧になったようで、「ところで、記事の中で、私が『rose tribe (barazoku)』という言葉を知っているかという質問があったが……実際、私は知っているのだ。なお、『百合族』が『薔薇族』から派生した言葉であることも知っているよ」というメッセージをいただいていました。

流石は聡明なるFrankさん、全部お見通しだぜっ…!

むしろ僕は百合族って言葉は勝手な造語だとすら思ってましたが、実際そう呼ばれることもあるみたいですね。

また一つ賢くなってしまった……。

今回は、前回終わりで触れられていた、『マリア様がみてる』と『青い花』引いては百合作品との関連について述べられた章ですね。

僕はこの作品の中身については全く存じ上げなかったので、せっかくですから『マリみて』原作小説・最終37巻の表紙を今回はトップ絵として飾らせていただくといたしましょう。

マリア様がみてる』最終巻表紙、https://www.amazon.co.jp/dp/B00HRJCP82より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第6回:33ページから40ページまで)

ヒエラルキーを愛し、愛される

マリア様がみてる』(洋題は『Maria Watches Over Us』、ファンは『マリみて』と呼ぶ)は、特に『青い花』をはじめとする21世紀の百合ジャンルにおける巨像として君臨している。そのため、『青い花』が何を言いたいのかを理解するためには、まず『マリア様がみてる』がどのような作品なのかを理解する必要があるといえるかもしれない。

 1997年に今野緒雪が発表した短編小説から始まった『マリア様がみてる』は、やがてマルチメディア展開にまで発展した。今野の著したライトノベル(1998年から2012年までで、『青い花』の連載と重複している)は30冊を超え、漫画化(全九巻)、四期にわたるアニメ化(英訳のある唯一のバージョン)*1、実写映画化、さらにはオーディオCDなどが発売されている*2

 一見したところ、『マリア様がみてる』の存在は、前章で述べた主張にとって問題を含んでいるように思われる:その主張とは、戦後の日本の変化、特に共学化や見合い結婚の減少が、20世紀初頭のエス文学が花開いた社会的文脈を取り除いてしまったという説であった。『マリア様がみてる』も、カトリック系女子校の生徒たちの「情熱的な友情」を描いており、それゆえこれも吉屋信子らによって開拓された伝統的なエス文学のテンプレートに合致しているように思われる。では、なぜこの作品は、21世紀の日本でこれほどまでに人気があるのだろうか?

 この一見矛盾した状況を解決するためには、『マリア様がみてる』をもっと詳しく見て、従来のエス作品との違いを確認する必要がある。まず、20世紀初頭の日本では、全ての少女が高校に通っていたわけではなく、カトリックの高校に通っていた数はさらに少なかったが、彼女らは皆、女子校に通っていたのだ。そのため、典型的なエス作品の舞台は、彼女たち自身の体験と、それほどかけ離れてはいなかったのである。

 しかし、21世紀初頭、『マリア様がみてる』が連載されていた時代背景では、シリーズで描かれているカトリック系の上流階級の女子校という環境は、読者や視聴者のほとんどにとって異質なものであろう。現代日本での出来事でありながら、異国情緒あふれる舞台で描かれる本作は、むしろファンタジー作品に近い。

 第二に、『マリア様がみてる』の登場人物の人生観は、従来のエス作品に登場する少女たちのそれとは異なり、それほど制約されたものではない。特に、一人の例外(小笠原祥子)を除いて、見合い結婚を強いられる少女は描かれていない―むしろ祥子でさえ、その運命を免れ得るようにも思われる。また、登場人物のほとんどが、高校卒業後の人生の選択にかなりの自由を持っていることが示唆されており、(鳥居江利子のように、幼い子供のいる男やもめ(=妻に先立たれた男性)を追いかけるような)ちょっと変わった道を歩むことさえあるほどだ。

 私の解釈では、従来のエス作品の中心的なテーマは、女子校に通う少女時代というものが、「良妻賢母」としての与えられた義務を果たすために、他人によって選ばれた夫およびその他の役割は一切想定していない日本国家のために全てを捧げる前の、他の少女と深く充実した関係を結ぶために一定の自由な選択を行使できる短い期間となっている、というものである。その束の間の幸せは、最高でも、愛する人との永遠の別れという形に終わる運命にある。最悪の場合、彼女や彼女のパートナーの死という結末を迎えるであろう。

 このテーマは、『マリア様がみてる』の『いばらの森』のエピソードにも反映されている。このエピソードでは、当初、佐藤聖が後輩の久保栞との関係を書いたと思われていた小説が登場する*3。しかし、実はその小説は何年も前にリリアン女学園に通っていた女性によって書かれていたのだ―つまり、『マリア様がみてる』では、エス的なストーリーとは全く異なる物語が展開されているということである。

 では、『マリア様がみてる』が従来のエス的ストーリーを単純に現代の東京にアップデートしたものでないとすれば、一体それは何なのだろうか?私は、『マリア様がみてる』は、優しさと共感と愛とによって支えられた、慈悲深いヒエラルキー型社会を特徴とするユートピア・ファンタジーであると考えるのが最も適切であると主張したい―作中社会の構成員が全て女性であることによって、少なくとも表面的には、このファンタジーにもっともらしさが与えられるのだ。『マリア様がみてる』の主題は、このようなヒエラルキー社会でいかにして自分の居場所を見つけるか、そして見つけられたら、どうすれば他者を抱き寄せてその社会を永続させられるか、というものなのである。

 このヒエラルキーの順序は、年長の少女が年少の少女と親密な友情と愛情の関係を結ぶ、スール(「姉妹」)制度によって維持されている。年少組は、先輩の卒業とともに自分たちのスールを引き受け、年齢に応じたヒエラルキーのランクアップを行っていくのである。

 このヒエラルキー制社会には多くの魅力がある。第一に、この社会は比較的包容力に富むものであり、少女たちは家の財産や社会的地位に関係なく、自分の居場所を見つけることができる。つまり、例えば、主人公の少女、福沢祐巳は、日本有数の資産家の令嬢である祥子の「プティ・スール」(=下級生の「妹」スール)として選ばれることになるのだ*4

 また、スール制度は、佐藤聖とそのプティ・スールである藤堂志摩子のように、表面的には距離があるが実は深い関係にあるような、性格の大きく異なる少女同士(例えば祐巳と祥子)や、特質や強度の異なる関係をも受け入れている。

 この制度にはまた、聖が後継者を決めるのが遅れて二学年下からスールを選んだり(通常は一学年下から選ぶ)、島津由乃がまだ中学から高校に進学していない有馬菜々プティ・スールに選んだりといった、「後継者問題」に対応する柔軟性もある。祥子が祐巳を、由乃が菜々を選んだように、ほとんどランダムに行われるような後継者の選択でさえ、最後には聖母マリアの手に導かれるように上手くいくのである。

 最後に、そして恐らく最も重要なこととして、スール制度は同時に、自分自身をポジティブに成長させる機会を与えてくれるということがある。新しいプティ・スールである祐巳は、祥子が自分に何を求めているのか、そして自分自身が松平瞳子グラン・スール(=上級生の「姉」スール)として正しくあるために、「『平凡な』若い女性から、周りを優しい力で導く、仲間にとっての司令官的存在」へと成長するために、何をすべきかなどを学ばなければならないのだ*5。そして祥子・瞳子は、祐巳との関係を通じて、彼女たち自身もより良い人間になっていくのである。

 このように、『マリア様がみてる』は、年下の少女と年上の少女(あるいは、さらにいえば、少女と教師)との関係が、「美しく、道徳的で、社会的で、自己中心的でない人格」の形成に不可欠であるという吉屋信子の主張を、現代の小説において体現しているのである*6

 しかし、それがいかに善良なものであっても、『マリア様がみてる』の社会秩序は、なお年齢と年功序列に基づく比較的厳格なヒエラルキーとして組織されており、ある面では伝統的な儒教の教えや日本の帝国的イデオロギーを思わせるものともいえる。そういったものによって奨励されたヒエラルキーと同様に、リリアン女学園の社会もまた、ヒエラルキーの中のヒエラルキーなのである。

 まず、スール関係(ある少女、そのプティ・スール、さらにその少女のプティ・スールなど)で結ばれた少女たちのグループがある。これは、日本の伝統的な家庭の大家族(「家(いえ)制度の家」)のようなもので、各世代が上の世代に従うというものである。

 そして、他の少女たちとは異なる存在として、世襲制の貴族階級として設定された三つのグループのスール、いわゆる 「ロサ(薔薇)ファミリー」がある。この一族の長、つまり三組の各スールの中で最も年長の少女たちは、貴族の称号に相当するものまで持っている:ロサ・キネンシスロサ・フェティダロサ・ギガンティアの三つだ。

 学園の生徒会は、民主的な選挙で選ばれるとされている。が実際には、明治時代の日本政府が、旧士族から新しく(改めて)華族に移行した人々によって支配されたように、ロサが生徒会を支配している。『マリア様がみてる』では、二人の挑戦者が生徒会に選出されようとするが、二人とも簡単に敗れ、世襲制が維持されるのである。(以下も参照。)

 生徒会のメンバーとして、ロサは賢明な統治者であることが示されている。多くの漫画やアニメに登場する生徒会とは異なり、生徒を支配したり、クラブを閉鎖しようとしたり、些細な規制で生徒の行動を制限したりしようとすることはない。

 むしろ、自らと他の生徒との距離を縮めようとする。例えば、祥子のグラン・スールである水野蓉子は、一般の生徒がロサに近づくことを恐れていることを憂い、薔薇の館(生徒会の集会所である建物)を希望者に開放する意向を示す。

 しかし、この慈悲深い秩序の範囲は、空間的にも時間的にも限られたものである。第一に、このヒエラルキー自体が、日本社会のより大きなヒエラルキーの中に組み込まれているといえる。エリカ・フリードマンは、「(『マリア様がみてる』の)ファンは、女性が疑問の余地なく指導し、命令することのできる立場にあると想定される世界に接している」と主張している*7。しかし、その世界はリリアン女学園の門前で終わっており、その先には家父長制の支配が君臨している。学校を運営するシスターたちは、地方の(男性)司教の権威に従う。その司教自身は、教皇が支配する(男性の)教会ヒエラルキーの中堅人物である。

 同様に、祥子は貴族的な気品と能力を持ち、仲間のロサたちと協調して学園の頂点を支配している。しかし、どうやら一人っ子でありながらも、彼女は大人として小笠原グループの経営を率いるのは無理だと判断されたようだ。許婚の柏木優と結婚すれば、小笠原グループは柏木卓が継ぐことになる。もしその関係が終わりを告げれば、幸子と結婚するか、小笠原家に養子縁組するかで、彼とは別の男が後任に決まると思われる。

 ほとんどの場合、『マリア様がみてる』のヒエラルキーの順序は、それに参加する人々によって疑問視されることはない―そしてほとんど全ての少女たちが実際に参加している。しかし、少なくとも四つの例外がある。二つは政治的、もう二つは個人的なものだが、それぞれ社会秩序の様々な側面およびそれがどのように潜在的な脅威に対して保持され続けているのかを描き示している。

 最初の政治的な挑戦は、ロサ・カニーナとして知られる蟹名静によってもたらされたものである―これは簒奪者(=皇位を奪取する者)が自らに王族の称号を与えることに類似している*8。静は生徒会役員に立候補し、聖に気に入られようとする。その目標を達成した彼女は、イタリアで声楽を学ぶために学校を去り、日本と、(暗示として)その社会ヒエラルキーとから自分自身を追放した。

 二人目の挑戦者は、祥子の従姉妹の瞳子である。養子であるということに起因する家庭内での不安定なポジションは、瞳子にまつわる物語を、貴族に生まれながら、生まれた環境によって貴族から疎外され、エリートでありながらエリートでない、そんな貴族の私生児の物語と類似させている部分があるといえよう。

 その結果、非嫡出子に、表向きの階級に反抗して革命を起こさせるという話もある。このことは、瞳子が生徒会役員に立候補し、ロサファミリーが運営する生徒会の伝統を打破しようとする所にも表れている*9。しかし、祐巳の優しさがそれに打ち勝ち、祐巳瞳子プティ・スールにし、瞳子ロサ・キネンシスの一員となり、いつか子供のころに夢見ていたロサの地位を手に入れるのである。こうして、過去の多くの反抗的な貴族の息子たちと同じように、彼女もかつて反抗したヒエラルキーに組み込まれて物語を終えるのである。

 社会秩序に対する個人的な挑戦としては、聖と栞の関係がより重要であり、その強烈さと情熱とは、レズビアン的な性質を持っているように読み取れる*10。しかし、二人が具体的にレズビアンであることが批判されているわけではない。

 むしろ、聖と栞が、明示的に年長者によって、また暗黙的に物語の枠組みによって批判されているのは、互いの関係に熱中するあまり、それぞれが果たすべき自ら入った二つのヒエラルキーにおける自分たち自身の役割がおろそかになってしまっている点なのである:聖はスールとスール制度に、栞は修道女として入信する教会にそれぞれ身を置いている(なお、聖は栞に愛情を注ぎながらも、栞を自分のスールにすることを明確に拒否している)。つまり、聖と栞の本当の罪は個人主義の罪であり、それを悔い改めることでこの小パートは解決する。

 もう一つのヒエラルキーを否定するケースは、実際は全く否定ではない。人を撮るのは好きだが、自分が撮られるのは嫌いな「写真部のエース」武嶋蔦子は、スール制度の外に存在し、それをじっと観察しているものの、自分からはそれに参加しないのである。彼女はいわば作者の透明な代役的立場のようなものであり、社会秩序を脅かす存在ではない。

 では、なぜ『マリア様がみてる』は、元々の想定対象読者であるティーンの少女たちや、マリみてファンの大部分を占める年配の男女の読者から、これほどまでに支持されているのだろうか?

 ティーンの女の子たちにとって、少女漫画やアニメ、ライトノベルが得意とする感動的なドラマ(メロドラマ的な)に加え、『マリア様がみてる』では、いじめが皆無に等しく、ほとんどの悩みが互いの優しさと支え合いで解消されるという魅力的な学校生活の様子が、支持されている一因なのだろう*11。多くの少女が、暗がりから引き抜かれて、上品で教養のある祥子の大切な仲間そしてパートナーとなる祐巳の姿に、自分自身を思い重ねていることだろう。祥子は一見何でも持っているように見えるが、実は、祐巳によってしか与えられないものを切実に必要としているのだ。

 このような感情の同一化は、他の登場人物にも展開することが可能である:『マリア様がみてる』にはさまざまな個性や人間関係が描かれているので、若い読者や視聴者なら誰でも、この物語の中のどこかに、自分自身の心に響く部分を必ず見つけることができるだろう。

 より年配の視聴者にとっては、日本が経済停滞による第二の「失われた10年」に突入する中で、『マリア様がみてる』の人気が高まったというのは偶然ではないだろう。『マリア様がみてる』は、別世界の日本、すなわちこうあって欲しいと思われる日本について、魅力的なビジョンを提供している。リリアン女学園の世界は、ヒエラルキー型社会でありながら、その一部を形成する全ての人々のために機能している。最底辺に位置する人々は、無視されたり搾取されたりするのではなく、大切にされ、気遣われる―「フリーター」や、終身雇用という日本の伝統的な約束(社会全体、特に女性には適用されない)が永遠に実現されない人々にとっての、心地よい栄養なのである。

 『マリア様がみてる』シリーズの人気は、この作品にインスパイアされた派生作品を生み出すきっかけとなった。自主制作の同人誌やファン・フィクションなどの非公式な二次創作は、ストーリーを拡張したり、登場人物の別の組み合わせを模索したり、お気に入りの「艦隊」をより妥協のない姿勢で見せたりすることを目指したものだった。中でも『Strawberry Panic』(ストロベリー・パニック)は、カトリック系女子校という設定やその他マリみてのテイストを生かし、より男性の視線を意識した女子学生の恋愛を描いている*12

 そしてもちろん、『放浪息子』執筆中の志村貴子のサイドプロジェクト的な作品と思われる『青い花』がある。志村は、『放浪息子』の連載開始から約一年半後の2004年に『青い花』の連載を開始した。『放浪息子』は月刊連載であった傍ら、隔月で一章ずつ掲載し、『放浪息子』終了の一ヶ月前の2013年に、『青い花』の連載を終了させた。

 このように、志村には二本目の漫画を描くのに十分な時間的余裕があり(それほど厳しいスケジュールではないにせよ)、『マンガ・エロティクス・エフ』という執筆先も存在し(『放浪息子』は『コミックビーム』で連載中)、女子学生同士の恋愛物語に慣れ親しんだ男女両方の大人の読者がいて、反響を呼んで脚色もできる物語構造があり、そしておそらく彼女自身何か語りたかったことがあったのだろう。

 その何かとは何だったのだろうか。前述したように、『マリア様がみてる』のような、ヒエラルキー的上下関係の枠組みにとらわれない、女性同士の愛の関係のモデルを提示すること、つまり、二人の少女がお互いにグラン・スールプティ・スール、先輩と後輩、上と下といったものではなく、対等な個人として築き上げる関係だったのではなかろうかと、私は考えている。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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…『マリみて』読んだことないから、正直あんまり分かんねぇーーっ!

しかし、Frankさんが恐らくマリみてもめっちゃ好きでいらっしゃること、そして地味に結構かなり面白そうな作品であることは、存分に伝わってきましたね。

最後の方の記述で、本当に優しい物語であることが窺えますから、まさに今の時代にも改めて必要とされているような傑作ということができましょう。

…とはいえ正直、Frankさんはマリみてがまるで日本でセーラームーン級に大ヒットして誰でも知っているかのような勢いで触れていますが、個人的には、ぶっちゃけタイトル以外何も知らなかったレベルですし、社会現象級の影響のあるレベルで圧倒的な知名度を誇る作品とまではいかないのではないか、とも思えますけど、でもやっぱり僕でも名前は聞いたことがある時点で、少なくとも大ヒットしていたことは間違いないともいえる形でしょうか。


その辺の、名前は聞いたことがあるし尋常じゃないレベルで感動・感涙・最高すぎてもうこれ人生だろ…という評判を聞きまくるけど自分はまだ手にしたことがないものとして、僕は『CLANNAD』(クラナド)が一番に思い浮かびました。

まぁこれはギャルゲー・美少女ゲーというジャンルですけれども、同じようなファンからの凄まじい熱量というか、心酔し尽くしている感想をたくさん見かけた気がしますし、本当に面白いんだろうな…ってのが伝わってきて、いつか死ぬ前に必ず鑑賞(プレイ?)したいなと思えてやみません。


あとなんか少女たちばかりが登場する作品でありながら色々硬派な作風である印象を受けたので、その辺がこれまたタイトルと「本当にいいぞ」という評判しか知らない、『ガールズ&パンツァー』、通称ガルパンも、記事を読んでいて頭に浮かびました。

ガルパンもマジで、観た人全員が「ガルパンはいいぞ」おじさんになることで有名ですから(笑)、いつか必ずチェックしておきたい作品なんですけど、こちらは珍しくアニメ原作の作品のはずで、僕は漫画は実は持っているんですがやっぱり原作からの方が良さそうかなぁということもあり、どうもまだ1ページも開いていない、積ん読状態な感じです。


…って、触れたことのない作品に触れてもしょうがないんですけど、これまでに触れたことのあるのでいえば、やっぱりまさに少女ばかり・硬派・凄まじく奥が深く読ませるストーリーで感動…という似たような感じで、『GUNSLINGER GIRL』、通称ガンスリが浮かびましたねぇ。

以前漫画紹介記事で語っていましたが…

con-cats.hatenablog.com
語るにはやっぱりスペースが足りなすぎるので、改めて「ガンスリはいいぞ」としかいえませんけど(笑)、あぁ、こないだ発売された『勇気あるものより散れ』の2巻も本当に素晴らしかったです。


…と、今回は青い花から話が逸れましたが、そろそろ前置き編も終わりに近付いてきましたね。

続きも楽しみに読ませていただくといたしましょう。

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*1:MariaWatches OverUs, directed by Yukihiro Matsushita and Toshiyuki Kato (2004–2009; Houston: Sentai Filmworks, 2020), Blu-ray Disc, 1080p HD.

*2:このシリーズの概要および重要性の評価については、エリカ・フリードマンの以下の記事を参照されたい。“Maria-sama ga miteru: 20 Years of Watching Mary Watching Us,” Okazu  (blog), January 28, 2018, https://okazu.yuricon.com/2018/01/28/maria-sama-ga-miteru-20-years-of-watching-mary-watching-us

*3:Maria Watches Over Us, season 1, episode 10, “The Forest of Briars.”

*4:しかし、この包容力の精神が行き届くのはここまでである。『マリア様がみてる』に登場する少女たちの中に、純粋な下層階級は見当たらない―高級私立校に通うには費用がかかることを考えれば、当然である。特に、祐巳の父親は小さなデザイン会社を経営しており、これはつまりプチ・ブルジョワに位置するといえるわけだ。

*5:Friedman, “Maria-sama ga miteru: 20 Years.”

*6:Suzuki, “The Translation of Edward Carpenter’s Intermediate Sex,” 208.

*7:Friedman, “Maria-sama ga miteru: 20 Years.”

*8:Maria Watches Over Us, season 1, episode 6, “Rosa Canina.”

*9:Maria Watches Over Us, season 4, episode 9, “The Masked Actress.”

*10:Maria Watches Over Us, season 1, episode 11, “The White Petals.”

*11:最も深刻ないじめは、祥子の友人である3人の女子生徒による祐巳へのいじめであった。しかし、これはリリアン女学園の外で起こったことであり、祐巳の誠実さと純朴さに惹かれた賢明な年長者によって、徹底的に打ち負かされる。Maria Watches Over Us, season 3, episode 1, “Vacation of the Lambs.”

*12:Sakurako Kimino, Strawberry Panic, trans. Michelle Kobayashi and Anastasia Moreno, 3 vols. (Los Angeles: Seven Seas Entertainment, 2008).