青い花の同人誌『That Type of Girl』日本語訳その30:野郎ども、いい所なしじゃねーか!

今回も、音楽ネタが絡んだセクションタイトルのようですね。

-----Frankさんによる今回の章のタイトル解説・訳-----

"Men, what are they good for?":1960年代の『War』というタイトルの曲(https://en.wikipedia.org/wiki/War_(The_Temptations_song))を元ネタにしている。

歌詞は次の通り:「War! What is it good for? Absolutely nothing」(戦争!何がいいんだ?絶対に何もない)。

このサブタイトルには、『青い花』のほとんどの男性登場人物の無為無策と受動性に対して「absolutely nothing」という言外の意も込められている。

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テンプテーションズはギリギリ存じ上げていましたが、僕が知っていたのはMy Girlなどの有名所ぐらいで、このWarは知りませんでしたねぇ。

My Girlは、多分、誰でもうっすら聴いたことがあるかな、ぐらいの曲でしょうか。

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(まぁでも、僕は洋楽もかなり聴き込んでいるのでそれで印象にはありましたが、もし洋楽CDを好んで聴いていなかったら、多分聴き覚えがないぐらいかな…って気はするかもしれませんね。)


一方Warは、実際に聴いてみても初耳でしたが……

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この力強いメッセージ性のある曲に乗せて、例によって厳しい判定をされがちな野郎キャラに関する話へ参ると致しましょう。


(今回は野郎ネタでむさ苦しいということで、女性陣揃い踏み(というわけでもなく、どういう集まりなのか謎で面白いですが)の素晴らしい画像を、英語版最終巻(日本語版7巻)冒頭のカラーページから拝借です。)

英語版4巻冒頭カラーページ・https://www.amazon.com/dp/1421593017/より

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That Type of Girl(そっち系のひと)
志村貴子青い花』に関する考察

著/フランク・へッカー 訳/紺助

 

(翻訳第30回:169ページから173ページまで)

男たちよ、何かいい所はないのか?

青い花』の英語版最初の三冊を通して、我々読者は大人の男性や男子大学生には遭遇しているが、高校生の少年と出会うのは第四巻になってが初めてである。ふみと同じ塾に通う学生の一人、田中あつしがふみに告白する(『青い花』(8) pp. 90-97/SBF, 4:270-77)*1(※訳注:英語版ではTanakaとなっているが、作中、強引に渡されたしわくちゃの連絡先の紙に書かれた名前は、田中ではなく田口であると思われる。本稿では英語版に則り、田中表記を用いる)。彼の突然の登場と、ふみによる素早い拒絶は、(「片恋」と題されたエピソードでの)あきらとの関係と並行しており、この作品で男性陣が果たす役割が限られていることと、男性陣が概してどのように特徴付けられているのかを浮き彫りにしている。

 『青い花』の直接的な着想の源となった可能性の高い『マリア様がみてる』を振り返ってみると、リリアン女学園の主要な活動の周辺的存在には過ぎないがそれでも、物語の中で何らかの役割を果たし、かなりの程度の主体性を発揮する男性キャラクターを目にすることができる。さらには、主人公・福沢祐巳の弟で、男子校に通う福沢祐麒を主人公とし、クラスメイトの男子たちも取り上げられているライトノベルのスピンオフシリーズ(全十巻)さえも存在する。

 『青い花』の男性キャラクターがそのような扱いを受けるとは考えにくい。むしろ逆に、この漫画の男たちは―いくつかのキーとなる例外を除いて―全般的に無能で受動的であり、自ら行動するというより行動させられる存在として描かれている。ふみのボーイフレンドになろうとする田中あつしは、一部の例外である:彼は勇気を出して彼女に告白し、ふみはそれに気付かないわけではない。しかし、彼は彼女の本当の名前を知ろうともせず(「名前わかった!ま まきめさん  かな?」)、ましてや告白する前に彼女と会話して友情を築こうともしないのである。

 康も例外だが、あくまでも部分的にのみだ。京子へのアタックは執拗に続けられるが、その内のどこまでが、幼少期に二人のために敷かれた軌道をなぞっただけ以上の、真の主体性によるものなのであろうか?実際、大学生であれば、他の女性と知り合う機会はいくらでもあったはずだ。京子へのしつこいまでの執着は、時折、『美少女戦士セーラームーン』のうさぎに対する衛のように信じがたいものに映るし、不快にさえ思えることがある。

 次の二人の例、あきらの兄の忍と各務先生は、少なくとも物語の中で描かれている限り、そのレベルの主体性が感じられることすらない。忍は、同じ大学生である康と同様、同年代の女性には興味がなく、付き合うこともないようだ。ふみの友人であるモギーという彼女(そして将来の妻候補)を作るのは、彼のシスコンという性癖にまつわる小ネタを締めくくるためだけに導入されたかのような作為が感じられるともいえよう。

 同様に、各務先生は杉本姉妹三人に追いかけられるが(最後は和佐の勝利)、女性陣にとっての彼の魅力は謎のままだ:「そういうのに弱い血筋なのかなぁ」と恭己は推測する(『青い花』(3) p. 88/SBF, 2:88)。仕事上の人物像も全く良くない:表向きは藤が谷演劇部の顧問を務めているにもかかわらず、ミーティングに参加しないのは長年のジョークである。あまりに酷いので、あきらと京子の三年目の作品を決めるために、日向子が部活に顔を出して助言せざるを得ない程である((7) pp. 163-4/4:165-66)。まさに演劇部部長の一人が彼に「いやいや 元々いてもいなくても同じようなもんでしたから」と言っている通りである((1) p. 111/1:111)。

 しかし、各務先生には、彼の名の下に果たした実績が一つある。そう、子供をもうけるということだ(『青い花』(7) pp. 16-8/SBF, 4:18-20)。この点で、彼は作中に描かれる他の父親たちの仲間入りを果たす。あきらの父親は永久に困惑しているように見えるし、ふみの父親は、ほんの少ししか登場しない。日向子の父親は、野球のニュースを読むのをやめて、娘と織江の関係について真剣に話す気になれないのだ((8) p. 30/4:210)。

 この男性陣は、恐らく家族を養うために働いているのだろうが、その話題は、作中では一切出てこない。(各務先生でさえ、授業をしている場面はおろか、教室にいる姿を見せることすらない。)その結果として、『青い花』に登場するほとんどの男性は、自分たちの属さない世界に住む異邦人であるかのように描かれている。

 私は部外者なので、個人的な経験から語ることはできない。それでも、これまでの読書経験と一般的な印象からは、『青い花』が舞台とする中流から中上流階級の環境の中で、日本の男性と女性の世界はほとんど別々で、ほんの少しの時と場所でしか交わることがないように思われる。

 男性の世界は仕事の世界であり、これは、ステレオタイプなサラリーマンとその雇い主、長い仕事の後に続く同僚との長い夜の付き合い、そして出張や家族から離れた赴任といった世界である。一方、女性の世界は家庭の世界であり、これは家庭を守り、子供や年老いた両親を介護するというものだ。

 この二つの世界が今後より親密に近付くことはあるのだろうか?男女の賃金格差や労働力人口といった客観的な経済指標と、そこを超えて、特にバブル崩壊後(1990年代から現在)の文化の変化にも目を向けることができるであろう。ここでは、二つの示唆的な現象がそれ自身を表しているといえる。

 第一は、最もステレオタイプな男性的メディアである『少年ジャンプ』誌に掲載された、ティーンの少年という層をターゲットにした漫画のアニメ化作品において、男性主人公が使う言葉の変化である。戦後の日本の高度経済成長期には、少年漫画のヒーローはほとんど一人称代名詞の「俺」を使い、これは「積極的・攻撃的で、一本調子で気丈なキャラクター、『熱血ヒーロー』」と関連付けられていた。しかし、1990年代半ば以降、多くの少年漫画の主人公は、より中立的な代名詞である「僕」を使うようになった。仮説としては、「1980年代に支配的だった男性性構造の力が弱まり始めたことで、少年漫画作品の主人公に期待されることが変化した」といったものが挙げられている*2

 もう一つの例は、志村が『青い花』を執筆しているときに注目された、いわゆる「草食系男子」に対する日本のメディアの執着である:「異性愛者でありながら、女性を追いかけること…(中略)…などに積極的でない」かつ、化粧をしたりファッションに興味を持ったりなど、ステレオタイプな女性的行動をとる若い男性のことだ*3

 「草食系男子」は、伝統的な日本の男らしさの理想に反し、日本の少子化の原因になっていると非難された一方で、性別の境界をあいまいにし、日本の男性に新しいモデルを提供する可能性があると、歓迎もされた*4

 現実はもっと平凡なものかもしれない。化粧やファッションへの関心を通じて男性の虚栄心を示すことは、1960年代や70年代にアメリカの男性が長髪やイヤリングを取り入れていたように、ジェンダーに関する男性の意見の革命、ましてや家父長的構造の解体を示唆するものでは最早ない。あるいは、より学術的な言葉で表現すれば、「従来の覇権的な男らしさを『よりソフトに』、一見より平等主義的な形に再構成しただけでは、男性性と女性性の間にある関係を均等にすることには必ずしも帰着しない」のである*5

 性や結婚に関心がないことについては、経済的な説明がより簡明である:日本政府の調査では、「異性間の恋愛に関心がないと答えた人は、所得や教育水準が低く、定職に就いていないことが多い」という結果が出ている。日本の経済が比較的停滞し、伝統的な企業の雇用が減少していることが、特に男性が家族の主な稼ぎ手であるという社会的期待もあって、結婚に踏み切るほど経済的に安定していないと感じる男性の増加につながったのであろう。また、日本の規範では婚外の性行為を咎める傾向にあるため、そのような男性は性パートナーを見つけることにあまり関心が持てなくなったといえる*6

 しかし、『青い花』の筆頭男性キャラである康と忍は、そういった経済的な不安はないように見受けられる点は注目に値しよう。康は、京子の母に対し就職の心配を口にしてはいるが(『青い花』(7) p. 68/SBF, 4:70)、京子と結婚できるぐらいの経済的な余裕はあるようだ。忍も同じ状況である:あきらもやっさんも、忍が比較的すぐモギーと結婚すると考えており、モギーも実際そう思っているようである(『青い花』(7) p. 93、(8) p. 173/4:95, 4:353)。つまり、少なくとも康と忍にとっては、サラリーマンの理想は、「覇権的な男性性」として、まだ生きており健在なのである。

 最後に、二人の男性が、受動的で非力な存在としては描かれていない:杉本姉妹の父親と、『鹿鳴館』の敵役である影山伯爵である。逆に、彼らは他者に対して権力を行使する側の男たちである:杉本は会社の中、そして家族に対して、一方影山は日本国家の中、そして妻、その恋人、および息子に対してだ。彼らは作中で儚くしか現れない―前者は姿は見せど言葉はなく、後者は語りかけられるだけである―その理由は恐らく、彼らの存在が、この漫画の焦点である女性的な世界と相容れないからであろう。しかし、我々読者は、彼らの存在、あるいは『青い花』が置かれている家父長的な社会の存在を無視することはできない。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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何ぃ?!草食系男子だと?バカにしているのか、これこそまさに戦争だ…!!

 

…とはならないのが、実際草食系を自認してやまない僕なのです(笑)。

まぁ僕も最早若いってわけでも、全体の何を知ってるってわけでもないのですが、やっぱり何となくの印象としては、今時の日本の男性は、昔のような家父長系日本男児みたいな人って、絶滅したともほぼ全員が違うとまでも決して言いませんけど、結構な割合でもうそうじゃない人の方が多いんじゃないかなぁ、って気がしますね。


僕ぐらいになると、草食系なんてむしろ褒め言葉ですからね。

やっぱりガツガツがっつく肉食より、控えめな優しさがある方が、断然いいと思うわけですよ。

自分や同じ男性陣が、やれ軟弱だの、やれ男らしくないだのと悪し様に言われたとしても怒ったりせず、「それは……僕もそう思う(笑)」と平和裏にやり過ごすのが、世の中の草を好んで食す野郎の中の一人、すなわち僕という男なのです。


これは別に卑屈になってるとか怒りを不自然に溜め込んでるとかいうわけではなく、「マジで実際一理はあるし、人にはみんな違う考えがあって当然だからね、間違いなく納得いく意見だから、もし変えた方がいいなら変えられるよう善処していきたいぐらいありがたいお言葉ですな」という感じで、とにかくポジティブに、ニコニコと受け止めるのが周りにとってのみならず自分自身にとっても最善でしょう…という、極めて合理的な思考に基づく高級高等な行為、いわば戦略(ストラテジー)の一種ともいえるわけです。

ご理解いただけるでしょうか…?

僕なんぞはその高級高等なアービヴォー(※Herbivore;草食獣)戦略のおかげで…!

…記事内でも指摘のあった通り、当然のように結婚しておらず、こんな場末のブログで婚活をしている(本当にしてるのか?という説すらあり(笑))という体たらくなので、やっぱオスとしては全然低級下等なザコなのかもしれません(笑)。


それでも僕はやっぱり、自分の性格的にも、旧態依然とした、場合によってはカッコいいともいえるかもしれない日本男児にはまずなれないので、このまま自分を貫いていきたく存じますが、まぁその辺は青い花とは全くこれっぱかしも関係ないのでそのぐらいにしておきましょう。

 

考察については、やはりFrankさんによる本作の男性キャラの評価は軒並み低くて笑えるレベルでしたが、まぁぶっちゃけ兄とか塾の高校生くんとかが、今時の普通の日本男子の姿ともいえるのかもしれません。

それが婚姻率や出生率の低下に繋がってるというのも、恐らく間違いなく相関があることなんでしょうけれども、これまた難しい話になるので、こちらも深追いせずにだんまりを決め込ませていただきましょう(笑)。
(実際当事者としてあんまり偉そうな知った口は利けませんしね。)

まぁ、自分自身に近い所があるからこそ、僕はFrankさんより男キャラを贔屓目に見てしまう、って所はあるのかもしれないですね。


最後また関係ないですが、Warと音楽というネタから折角なので脱線しておくと、こないだ「京子のテーマは小さな恋のメロディだね」とかほざいてましたけど、実は「京子」といえば、パッと頭に思い浮かんだ曲は、我らがジョン・レノンのこの曲、『Happy Xmas (War Is Over)』ともいえるかもしれません。

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…とはいっても、ただ曲の頭に囁き声で「ハッピークリスマス、キョーコ!」という台詞が入っているというただその一点のみがその理由なんですが、ちょうどWarという曲とともに、アメリカ人男性であるFrankさんから「日本の男は骨なしチキンだねHAHAHA」と、人によっては「戦争か?!」と思われる考察を受けていたので、平和を愛する男である僕が「戦争は終わった…」と、この曲をペタリと貼って一件落着としたい…という、割とかなりどうでもいいしょうもない話でした(笑)。


ちなみに最初この曲を聴いたとき(もうずっと昔)は、普通にジョンが小野洋子さんに「ハッピークリスマス、ヨーコ」と言ってると思ってたので、「ん?『Kyoko』に聞こえるのは気のせい…?」とか思ってたんですけど、普通に、小野洋子さんの娘さんの名前がKyokoさんだったんですね。

しかも、ついさっきこの曲について検索して情報を目にしていた、たった今の今まで、最初の「ハッピークリスマス、キョーコ」もジョンの声だと思っていたんですけど、どうも情報筋によると最初は小野洋子さんの囁き声だそうで、「んなバカな。ジョンの声でしょ」と思って上の動画をよく聴いてみたら「ホンマや!めっちゃヨーコさんの声やんけ!」と、ウン十年何度も聴いていた曲で、初めての発見もしちゃいました。


…と、まさしく自分がいかに適当に音楽を聴いているかというだけの、全然どうでもいい話でしたが、ちょうど世界情勢もキナ臭い日々が続いていますし、反戦歌のWarとHappy Xmas Kyokoでも聴いて、平和を願いたい限りです(強引なまとめ)。

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*1:ふみとあつしが通う石出塾は、志村の友人で、時々アシスタントもしているイシデ電にちなんで名付けられたと思われる。

*2:Hannah Dahlberg-Dodd, “Talking like a Shōnen Hero: Masculinity in Post-Bubble Era Japan through the Lens of Boku and Ore,” Buckeye East Asian Linguistics 3 (October 2018), 31–42, https://kb.osu.edu/bitstream/handle/1811/86767/BEAL_v3_2018_Dahlberg-Dodd_31.pdf

*3:Chris Deacon, “All the World’s a Stage: Herbivore Boys and the Performance of Masculinity in Contemporary Japan,” in Manga Girl Seeks Herbivore Boy: Studying Japanese Gender at Cambridge, ed. Brigitte Steger and Angelika Koch (Berlin: LIT Verlag, 2013), https://www.academia.edu/34610378/All_the_Worlds_a_Stage_Herbivore_Boys_and_the_Performance_of_Masculinity_in_Contemporary_Japan_in_Brigitte_Steger_and_Angelika_Koch_eds_Manga_Girl_Seeks_Herbivore_Boy_Studying_Japanese_Gender_at_Cambridge_LIT_Verlag_2013

*4:Deacon, “All the World’s a Stage,” 135, 159–66.

*5:Justin Charlebois, “Herbivore Masculinity as an Oppositional Form of Masculinity,” Culture, Society & Masculinities 5, no. 1 (Spring 2013), 100.

*6:Cyrus Ghaznavi, Haruka Sakamoto, Shuhei Nomura, Anna Kubota, Daisuke Yoneoka, Kenji Shibuya, and Peter Ueda, “The Herbivore’s Dilemma: Trends in and Factors Associated with Heterosexual Relationship Status and Interest in Romantic Relationships among Young Adults in Japan—Analysis of National Surveys, 1987–2015,” PLoS ONE 15(11): e0241571, https://journals.plos.org/plosone/article?id=10.1371/journal.pone.0241571, 13